前篇
一
青みを帯びた皮の、まだ玉虫色に光っている、活きのいいみごとな秋鯵だった。皮をひき三枚におろして、塩で緊めて、そぎ身に作って、鉢に盛った上から針しょうがを散らして、酢をかけた。……見るまに肉がちりちりと縮んでゆくようだ、心ははずむように楽しい、つまには、青じそを刻もうか、それとも蓼酢を作ろうか、歌うような気持でそんなことを考えていると、店のほうから人のはなし声が聞えて来た。
「いったいいつまでにやればいいんだ」
「無理だろうが明日のひるまでに頼みたいんだ」
「そいつはむつかしいや、明日までというのがまだ此処にこれだけあるんだから、まずできない相談だよ」
「そうだろうけれど、どうしても爺さんの手で研いで貰いたいんだ、そいつを持って旅に出るんだから」
「旅へ出るって」源六のびっくりしたような声が聞えた、「……おまえが旅へ出るのかい」
「だから頼むのさ、爺さんに研ぎこんで置いて貰えば安心だからな、無理だろうけれどそれでやって来たんだよ」
庄吉の声だった。おせんは胸がどきっとした、庄さんが旅に出る、出仕事だろうかそれとも、そう思ってわれにもなく耳を澄ました。
「そうかい」と源六が返辞をするまでにはかなりの間があった、「……じゃいいよ、やっておくから置いてゆきな」
「済まない、恩に衣るよ爺さん」
そしてその声の主は店を出た。おせんがその足音を耳で追うと、それが忍びやかに、けれどすばやくこの勝手口へ近づいて来た。おせんはそこの腰高障子をそっと明けた、庄吉が追われてでもいるような身ぶりですっと寄って来た。血のけのひいた顔に、両の眼が怖いような光を帯びておせんを見た、彼は唇を舐めながら囁くように云った。
「これから柳河岸へいって待っているよ、大事なはなしがあるんだ、おせんちゃん、来て呉れるかい」
「ええ」おせんは夢中で頷いた「……ええいくわ」
「大川端のほうだからね、きっとだよ」