夜の蝶
本文約10,300字 ・ 読了時間 約21分
あらすじ(AIが作成しました)
本所亀沢町の屋台に、旅装の男が客として訪れる。そこへ、かつての商家の令嬢でお幸という女が、幻の子供を抱くようにして現れ、失踪した高次という男を探し求める。周囲は高次を主人の金を盗み逃亡した極悪人と罵るが、ある老人はその背後にある真実を涙ながらに語る。男は老人の言葉を聞き届け、静かに店を去る。本作は、人の情と世間の偏見、そしてある男が背負った孤独な矜持を描く物語である。
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一
本所亀沢町の掘割に面した百坪ばかりの空地に、毎晩「貝屋」という軒提灯をかかげた屋台店が出る。貝を肴に酒を飲ませるのと、盛りのいいぶっかけ飯が自慢で、かなり遠い町内にも名が知られていた。
車屋台のまわりを葭簀で囲い、その中に白木の飯台と腰掛が置いてある。屋台の鍋前にも腰掛があり、そこにも三人くらいは掛けられるから、客のたて混むときには十二、三人は入ることができた。――掘割の向うは公儀の御米蔵で、堀沿いにずっと土塀が延びているし、うしろは佐渡屋、丸伍、京伝などという大きな問屋が並んでいる。もちろん、みんな板塀の裏手が見えるだけで、夜になると燈も漏れず、あたりはひっそりと暗くなる。
もう三月中旬だというのに、かなり冷える或夜のこと――
午後から雨もよいになったせいか、夕方のたて混む時刻が過ぎると、「貝屋」は珍しくひまで、九時をまわる頃には、常連の飲む客が四、五人だけになった。担ぎ八百屋の竹造、大川端の土屋の船頭の勇吉、この二人は古い地つきの友達らしく、どちらも二十八、九になる。二人の前に、飯台を挾んで向合っているのは表の佐渡屋の蔵番で、年は五十六、七だろうか、本名は六兵衛というのだが、いつも酔っているので「ずぶ六」と呼ばれている。
そのほかに二人、一人は初めて見る顔で、旅の者らしい、手甲脚絆に草鞋をはき、合羽を着て、頭に塵よけの手拭をかぶっている。年はもう三十六、七、これは鍋前に掛けて、主人の与平とぼつぼつ話しながら、焼き蛤を肴にゆっくりと飲んでいた。
もう一人は、――これは飯台の端に酔いつぶれている。酔いつぶれているのだろう、腰掛から落ちそうな恰好で、飯台に俯伏し、だらしなく曲げた腕に顔をのせたまま動かない。垢じみた布子(木綿の綿入れ)によれよれの三尺をしめ、頭の毛は灰色だし、伸びている無精髭も灰色で、ぜんたいが云いようもなくみじめにうらぶれていた。
「待っておくれ、高次、どこへゆくの」
外でそういう女の声がした。葭簀張りのうしろのほうらしい。「どこへゆくのよう」といい、そのまま聞えなくなった。