TRENDIA CLASSIC

四日のあやめ

山本周五郎

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二月下旬の寒い朝であった。

六七日まえからすっかり春めいて、どこそこでは桜が咲きはじめた、などという噂も聞いたのに、その朝は狂ったように気温がさがり、家の中でも息が白く凍るほどであった。――早朝五時ちょっと過ぎたじぶん、千世が居間で鏡に向っていると、家士の岩間勇作が来て「来客です」と告げた。もちろん戸外は明るくなっているが、まだ客の来る時刻ではなかった。

「深松さまです、裏殿町の深松伴六さまです」と勇作は云った、「たいそうおいそぎのようすで、大事が起こったからすぐおめにかかりたい、玄関で、と申しておられます」

大事という言葉が千世の耳に刺さった。良人の五大主税介はまだ寝ていた。

「わたくしがまいります」

千世はこう答え、紙で手早く指を拭きながら立ちかけたが、ふと吃驚したように鏡の面を覗いた。いまそこに人の顔が映ったのである。自分のではない、蒼白く痩せた老婆の顔のようであった。

――いつかもこんなことがあった。

覗いた鏡にはむろん自分の顔しか映っていない、千世は胸騒ぎを感じながら立ちあがった。

深松伴六は玄関に立ってふるえていた。彼は七十五石の近習番で、年は二十五歳、良人より三つ若いが、二人は兄弟のように仲がよかった。――伴六はひどく昂奮していた。外が明るいので顔はよくわからないが、握っている両の拳がふるえているし、その声も平生とはまるで違うように聞えた。

「今日は非番なものですから、まだやすんでおりますけれど」

「ではこうお伝え下さい」と伴六は云った、「とうとう徒士組と衝突しました。場所は籠崎の大洲、時刻は六時です」

千世はくっと喉が詰った。伴六はなお、自分はこれから土田と唐沢へまわるが、刻限が迫っているからすぐ起こしてくれるようにと云い、門の外へ出ていったと思うと、(そこに繋いでおいたのだろう)馬に乗って駆け去るのが聞えた。戞々というその蹄の音が聞えなくなるまで、千世は動くことができなかった。

――大変なことだ、大変なことになった。

彼女はふらふらと立ちあがった。

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