TRENDIA CLASSIC

樅ノ木は残った

山本周五郎

1 / 132

柿崎道場

新八の顔は血のけを失って蒼白く、汗止めをした額からこめかみへかけて膏汗がながれていた。躯も汗みずくで、稽古着はしぼるほどだったが、それでも顔は蒼白く、歯をくいしばっている唇まで白くなっていた。

躰力も気力も消耗しつくしたらしい。眼の前にいる柿崎六郎兵衛の姿もぼんやりとしか見えず、ただ六郎兵衛の木剣だけが、ぞっとするほど大きく、重おもしく、はっきりと見えた。

「打ちこめ、来い」と六郎兵衛が云った。

新八は夢中で打ちこんだ。相手の姿はそこになかった。新八は踏み止り、向き直って、絶叫しながら面へ胴へと、打ちこんだ。六郎兵衛は軽く躱すだけであった。新八の木剣は、どう打ちこんでも、六郎兵衛の躯へ一尺以上近くはとどかなかった。

道場の一隅で、野中、石川、藤沢の三人が見ていた。

「ひどいな」と石川兵庫介が呟いた。

「いつものことだ」と藤沢内蔵助が囁いた。

「このごろずっとあんなふうだ、あれは稽古じゃあない、拷問だ」

「なにかわけがあるな」

「もちろんだね」と内蔵助が囁いた、「われわれにはわからない、なにもかも秘密だ、あの少年は野中といっしょに住んでいるんだろう、野中は監視役らしい、どうやら逃げださないように監視を命じられているらしいが、だがどんな事情で、なんのために捉まえておくのかまるでわからない」

「わからないことはほかにもずいぶんある」と兵庫介が囁いた、「われわれの毎日の生活も、これからどうなるのか、あすの日どんなことが起こるか、なにもかもわからない、おれたちはまるで、柿崎に飼われている労馬のようなものだ」

「みんなで相談をし直そう」

「おれは幾たびもそう云った」と兵庫介は唇を曲げた、「この道場と、牝犬のように淫奔なあの三人の女と、柿崎の贅をつくした生活を支えるために、これ以上汗をかくのはおれはごめんだ、もうおれたちも考え直すときだと思う」

「みんなで相談をしよう、今夜にでもみんな集まるとしよう」

「だが、問題は食うことだ」

「むろん眼目はそのことだ」

「みんな食いつめたあげくのなかまだ、食えないことの辛さは、みんな骨身にこたえているからな」

「おれはあの人に会った」と藤沢内蔵助が囁いた。

山本周五郎の他の作品