樅ノ木は残った
本文約110,900字 ・ 読了時間 約222分
あらすじ(AIが作成しました)
柿崎六郎兵衛が仕切る道場では、新八や石川兵庫介が理不尽な稽古や監視に苦しんでいた。藩内の権力争いが深刻化する中、国老の甲斐は青根の不老閣に滞在し、幕府の老中や家中をめぐる複雑な情勢を思案する。自身の窮地や陰謀が渦巻く極限状態において、甲斐は過去の記憶や幻影と対峙しながら、重苦しい緊張感の中で自らの運命を見据える。
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柿崎道場
新八の顔は血のけを失って蒼白く、汗止めをした額からこめかみへかけて膏汗がながれていた。躯も汗みずくで、稽古着はしぼるほどだったが、それでも顔は蒼白く、歯をくいしばっている唇まで白くなっていた。
躰力も気力も消耗しつくしたらしい。眼の前にいる柿崎六郎兵衛の姿もぼんやりとしか見えず、ただ六郎兵衛の木剣だけが、ぞっとするほど大きく、重おもしく、はっきりと見えた。
「打ちこめ、来い」と六郎兵衛が云った。
新八は夢中で打ちこんだ。相手の姿はそこになかった。新八は踏み止り、向き直って、絶叫しながら面へ胴へと、打ちこんだ。六郎兵衛は軽く躱すだけであった。新八の木剣は、どう打ちこんでも、六郎兵衛の躯へ一尺以上近くはとどかなかった。
道場の一隅で、野中、石川、藤沢の三人が見ていた。
「ひどいな」と石川兵庫介が呟いた。
「いつものことだ」と藤沢内蔵助が囁いた。
「このごろずっとあんなふうだ、あれは稽古じゃあない、拷問だ」
「なにかわけがあるな」
「もちろんだね」と内蔵助が囁いた、「われわれにはわからない、なにもかも秘密だ、あの少年は野中といっしょに住んでいるんだろう、野中は監視役らしい、どうやら逃げださないように監視を命じられているらしいが、だがどんな事情で、なんのために捉まえておくのかまるでわからない」
「わからないことはほかにもずいぶんある」と兵庫介が囁いた、「われわれの毎日の生活も、これからどうなるのか、あすの日どんなことが起こるか、なにもかもわからない、おれたちはまるで、柿崎に飼われている労馬のようなものだ」
「みんなで相談をし直そう」
「おれは幾たびもそう云った」と兵庫介は唇を曲げた、「この道場と、牝犬のように淫奔なあの三人の女と、柿崎の贅をつくした生活を支えるために、これ以上汗をかくのはおれはごめんだ、もうおれたちも考え直すときだと思う」
「みんなで相談をしよう、今夜にでもみんな集まるとしよう」
「だが、問題は食うことだ」
「むろん眼目はそのことだ」
「みんな食いつめたあげくのなかまだ、食えないことの辛さは、みんな骨身にこたえているからな」
「おれはあの人に会った」と藤沢内蔵助が囁いた。