樅ノ木は残った
本文約143,900字 ・ 読了時間 約288分
あらすじ(AIが作成しました)
伊達家の家臣である甲斐は、近しい人々の相次ぐ死や周囲での理不尽な追放処分を経験する。自身を遠巻きにする何者かの圧力が強まる中、一ノ関の疑惑解消という大きな目的を胸に秘め、孤独に忍び寄る運命と対峙し続ける。そんなある日、宇乃という女性がかつて共に樅ノ木を眺めた思い出を辿りながら甲斐に思いを馳せると、降りしきる雪の向こうにその姿が浮かび上がる。物語は、時代の荒波に翻弄されつつ己の信義を貫こうとする男の静かな決意と、深い孤独を描く。
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意地の座
甲斐が「席次争い」の騒ぎを知ったのは、矢崎舎人の裁きがあって、十日ほど経ったのちのことであった。
それまでにも、甲斐には辛いことが続いていた。おと年(寛文五年)の夏、塩沢丹三郎が毒死し、去年の正月には茂庭周防に死なれた。周防が寝ついていた百余日、病床をみまったのは、僅かに三度だった。それも二度は他のみまい客といっしょで、まったく形式的な挨拶しかしなかった。ただいちど、独りでみまったときも、ほんの四半刻あまりしかいなかったし、そのときでさえも、深入りをした話しは、二人ともしなかった。
――話すことはないな。
――そう、話すことはない。
二人はお互いの眼でそう頷きあった。たしかに、口で話しあうことはもうなかった。周防の顔には、あとの事は甲斐が引受けてくれる、という安心の色があり、甲斐は大丈夫やってくれる、という信頼感があらわれていた。それを証明するように、周防はひと言だけ、先へいって済まない、という意味のことを、微笑しながら云った。
――なに、すぐ追いつくさ。
と甲斐は答えた。
――もうみまいに来るには及ばないぞ。
――そのつもりだ。
――これが別れだな。
――これが別れだ。
――笑うかもしれないが。
と周防が云った。
――おれがいまいちばん心配しているのは、うまく死ねればいいが、ということだ。
――自然のままがいい。
と甲斐が云った。
――うまく死のうとまずく死のうと、死ぬことに変りはないのさ。
周防は微笑し、じっと甲斐の眼をみつめながら、頷いた。
――ではこれで。
――では、……
それが、二人の会った、最後になった。
周防の死んだのは、正月十一日の朝で、前夜半から二度茂庭の家従から甲斐のもとへ、「危篤」の知らせがあり、甲斐は堀内惣左衛門を代理にやった。惣左衛門は夜明けまで、茂庭家に詰めていたが、臨終が近いといって、七時ころ、甲斐を迎えに来た。
ひと眼だけ、顔を見たい、と仰しゃっています。