TRENDIA CLASSIC

樅ノ木は残った

山本周五郎

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川の音

七月中旬の午後、――ひどく暑い日で、風もなく、白く乾いた奥州街道を、西にかたむいた陽が、じりじりと照らしていた。

「そうだ、あいつだ」と伊東七十郎は歩きながらつぶやいた、「どこかで見た顔だと思ったが、たしかに彼に相違ない」

七十郎は、片方の手で額をぬぐった。手の甲に、べっとりと汗が付き、髪の生え際には、汗が乾いて塩になっていた。着ている生麻の帷子も、袴も、汚れてほこりまみれで、萱笠をあみだにかぶり、彼は刀を肩にかついでいた。刀には旅嚢がひっ掛けてあり、その旅嚢が背中へ触らないように、かついでいる刀をあんばいしながら、歩いていた。

そこは陸前のくに柴田郡の、岩入というところで、左に白石川の流れが見え、その流れはいま、街道とはなれつつあるが、広い河原をわたって、川の瀬音はまだはっきり聞えて来た。馬を曳いた農夫がゆきちがい、三頭の黒い牛を追って来た牛方とゆきちがった。三頭ともみごとな黒牛で、埃をあびているのに、その毛はびろうどのように艶つやと光り、そしてどの牛もずっしりと重おもしく、王者のように重おもしく、ゆっくりと歩き、通りすぎるときに、その一頭は、小さな眼で、七十郎を見た。

七十郎は立ちどまって、ほれぼれと牛を見おくった。みごとだな、と彼は思った。みごとに堂々としている、あれは飼われるべき動物ではない。あのくらいの牛になると、人間が飼うのは不自然だ、と思った。

牛はゆっくりと遠のいてゆき、その向うから、二人の供をつれた、旅装の侍が、こちらへ近づいて来た。

七十郎は松並木の影にはいり、そこにあった石に腰をかけた。旅嚢を脇におろし、刀を両足の間に置き、萱笠をもっとあみだにして、額の汗を手でぬぐい、衿をくつろげた。――侍は近づいて来て、そこに七十郎のいるのを認めると、笠で顔を隠すようにしながら、前を通りぬけようとした。

「やあ、しばらくだな」七十郎は無遠慮に呼びかけた、「しばらくだな、渡辺七兵衛、休んでゆかないか」

侍は立ちどまってこっちを見た。それは渡辺七兵衛であった。彼は七十郎と同年配だが、四つ五つも年長にみえる。供の一人は万右衛門といって、これも七十郎には見覚えがあった。

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