TRENDIA CLASSIC

日本婦道記

山本周五郎

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「あたしの主人はこんど酒井さまのお馬脇に出世したそうですよ」

厚い大きな唇がすばらしく早く動いて、調子の狂った楽器のような、ひどく嗄れた声が止めどもなく迸しり出た。

「……お馬脇といえば武士なら本陣の旗もとですからね、足軽としてはこれより名誉なことはありませんよ、なにしろ酒井さまから直にお声をかけて頂けるんですから、その刀を取れとか沓を持てとか、そういったようにね、それからまた銃隊をさがらせろ、なんという命令を伝えにもゆきます、そういうときは酒井さまのお口まねだから、銃隊のお旗がしらに向っても銃隊さがれとどなりつけるんですよ、――銃隊さがれ、ふだんならそんな口を利けばそれこそお咎めものでしょう、けれどもお口まねなんだから誰もなんとも云うわけにはいかないんですとさ」

「だってそういう軍令はお使番という役があって、お側の武士がつとめるのだと聞いていますよ」これもなかなか負けていない気質らしい、前の女を凌ぐ舌鋒でやりこめにかかった、「黒地四半の布に『使』と書いた指物を持つのが徳川さまお旗もとの使番のきまりです、そのほかの者がどうしたって軍令を伝えることはできません、それはもうたしかなことですよ」

「それは御本陣のことでしょう」さきの女は平然とやり返した、「……御本陣はそのとおりですよ、それはわたしも知っていますさ、けれどもお旗下の大将がたの陣にはお使番なんかありません。そんな役があるものですか、大将がみんなでそんなことをしたら、戦場がお使番だらけでごちゃごちゃになってしまうじゃありませんか、そんなことは決してありませんよ」

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