十二月になると一日一日に時を刻む音が聞えるようである。ほかの月にはこんなことはないし、そんな感じのすることがあっても、十二月のそれほど脅迫感はない。いまこの原稿を書いていながら、私は現実にその時を刻む音を聞きその音の速度の早さと威かく(嚇)とに身のちぢむのを覚えているのである。
ひるめしを食べに出て、市電で仕事場へ帰る途中、私の前へ若い人妻が立った。背中に赤児を背負い、五歳くらいの女の子をつれている。人妻は二十六か七、色のさめた赤いセーターにネズミ色のラシャのスカート。ウエーブの伸びた髪毛が乱れて、細おもての青ざめた顔はこわばり、みけん(眉間)には疲れたような、神経質なしわが深く刻まれている。おちつきを失なった眼は絶望した人のように、するどく一点をみつめていた。女の子は片手で母親のスカートにつかまり、片手に半分を紙で包んだキャンデーを持っていて、それをしゃぶりながら母に呼びかけるのであった。
「かあちゃん、おばちゃんに会えてよかったね、ねえかあちゃん」
若い母親は一点をみつめたまま答えない。「かあちゃん」とまた女の子は呼びかける「ねえ、おばちゃんがうちにいてよかったね」、ねえとスカートを引張る。すると若い母親は邪険にスカートを振り放して、うるさいね、と邪険にいうのであった。
「うるさいね、黙っといでよ」おばちゃんがその母子とどういう関係の人であるかむろんわからない。若い母親は赤児を背負い、幼ない子をつれて「おばちゃん」を訪ねていったのである。おばちゃんはうちにいたし、彼女たちはおばちゃんに会った。女の子にはそれは「よかった」のである。しかしその若い母親にはよくはなかったらしい――十二月。私はここで自分の想像を組み立てようとは思わない。この母子の短かい対話そのものが、疑問の余地のないほどあからさまに事情を語っているのであって、しかも十二月であるということは、こちらにとって心臓へあいくちを突込まれるかに似た思いを致させられるのである。