八百長について
本文約1,600字 ・ 読了時間 約4分
あらすじ(AIが作成しました)
世間で繰り返される八百長論争について論じる随筆。ギャンブルには不正がつきものであるという常識を前提とし、八百長を執拗に追求する専門家や通人の姿勢が、かえって勝負の興を削ぎ、観衆の楽しみを損なっていると指摘する。勝負事はあくまで有閑な遊びであり、過度な不正追求は無用であると説き、勝負そのものを余裕を持って楽しむべきだと主張する。
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このごろ「八百長」ということがしばしば問題になるが、「八百長」そのものよりも、それをとりあげていきりたつ側のほうが、私にはひどく興ざめに感じられる。ずっとまえ、坂口安吾さんがどこかの競輪で「八百長」を発見し、この不正はどこまでも追及する。と激昂しておられた。私はあまりばかげたことなので笑ったが、そのときA紙のMさんが私をとがめて、どんなに事が軽くとも「不正を不正として糾明する態度は立派ではないか」と言った。
「それはお言葉どおりでしょう」と私は丁重に答えた。「けれどもギャンブルというものは、いかなる種類のものにも必ずインチキがついてまわる、ということが常識ではありませんか」
私は口がうまいのでMさんは黙ってしまわれた。私は自分が生れつきギャンブルぎらいなので、へたくそな将棋を若い友人とたまに指すほか、あらゆる勝負ごとに興味がないし、知っている限りの人に「勝負ごとだけはいけませんぞ」と押しつけがましいことをいう。しかし好きな人は好きなので私がなんと言おうと風馬牛である。
それはそれでよろしい、それならば「ギャンブルにはインチキがつきもの」であるということを認めて、おおらかな気持でたのしんでいただきたいものだ。
私はむかし彦山光三さんの下で雑誌の「相撲号」の手伝いをしたことがあるが、相撲そのものはあまり好きにはなれなかった。いまでもラジオで聞く程度であるが、ここでもまた「八百長」うんぬんでもめている。あの一瞬で決する勝敗で八百長をするというのはたいへんなことで、もし専門家――という人たちがよくうがち過ぎをするように思われるのですが――だけにしか発見できないほど巧みにやってのけたとすれば、レスリングと同様それは美技として受け入れてもいいのではないか。