颱風の豫報
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あらすじ(AIが作成しました)
相次ぐ颱風の襲来を背景に、現在の気象観測技術による颱風の進路予測の仕組みと、科学における予報のあり方を論じる。新聞等で示されるY字型の予測図が示す蓋然性と、人間の生活に不可欠な明快な予報との間にある隔たりを指摘する。気象学の父と称される岡田武松の予報に対する姿勢に触れつつ、現在行われている確率的な予測の限界と、真の予報が目指すべき水準について考察する随筆である。
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この半月くらいの間に、二十二號颱風から始まって、二十五號まで、四つもの颱風が續けざまにやって來た。そのうち二つばかりは、九州を襲って、大損害を與えたが、あとの二つは、幸いにして本土をそれたので、大したことはなかった。
この頃は、氣象觀測網も大分充實し、觀測技術も進歩したので、颱風は洋上かなりはなれたところにある頃からもう發見される。それで日本に近づいて來る進路も、二三日前にははっきりする。
その進路は、天氣圖の上に、矢印をつけた線で示され、新聞にも出る。ところが日本列島へ近づいた現在位置から先のところ、即ち今後の豫想進路は、たいていはっきりしないので、Y字型に二本の進路を示し、その間に斜線を入れて、新聞などに發表する。その斜線の入った地域が、颱風に襲われる蓋然性の強いところである。
こういう天氣圖には、皆がもう馴れてしまったので、颱風の豫報というものは、こういうものと思っている人も、かなりあるようである。しかしこれは豫報の一歩手前であって、豫報ではない。
もっともそれは豫報という言葉の定義の問題であって、蓋然性を述べればよいということにすれば、立派に豫報である。科學は、すべての現象について、蓋然性しか言うことは出來ない、というやや哲學的な見方からすれば、天氣豫報などは、もちろん蓋然性を言えば十分である。
しかし人間の生活に結びつけての豫報ということにすれば、蓋然性では、一寸困ることがある。明日の天氣が、晴れそうでもあり、降りそうにも考えられる氣象状態の時に、「晴れるかも知れないし、降るかも知れない」という豫報では、一寸妙なものである。
日本の氣象學の父といわれる岡田武松先生は、長らく中央氣象臺長をつとめられ、今日の氣象臺を作り上げられた方である。先生の流儀は少々極端であって、世の中の人は、晴れるか降るかを知りたいのであるから、どっちかはっきり言うことが豫報である。理由も説明も要らない、という考え方であった。