
序章 「私、ADHDだから」
「私、ADHDだから」
この言葉を、最近はそれほど珍しく感じなくなった。テレビやインターネットの中だけの話ではない。SNSを眺めていると、ごく普通の日常会話の流れの中に、当たり前のような顔をしてこの言葉が入り込んでいる。「また遅刻しちゃった。私、ADHDだから」「片づけられないんだよね。ADHDあるある」「集中できない。これってADHDかな?」——そんな言葉が、特別な説明もつけられないまま、タイムラインを流れていく。
その多くは、深刻な相談ではない。笑い話であったり、自己紹介であったり、友人とのやりとりの中の何気ない一言であったりする。「自分はちょっと変わっている」「普通の人とは少し違う」。そうした自分の輪郭を短い言葉で言い表すために、ADHDという言葉が選ばれることもある。
それだけなら、何も問題はないように思える。人間は昔から、自分を説明するためにさまざまな言葉を使ってきたからだ。私は几帳面だ。私は人見知りだ。私は飽きっぽい。私は自由人だ。私は不器用だ。そうやって、本来なら一言では言い表せないほど複雑な自分という存在を、いくつかの手頃な言葉に置き換えて生きてきた。
だから私は、「私はADHDだから」という言葉が使われること自体を否定したいわけではない。むしろ、その言葉によって救われる人がいることを知っている。
長いあいだ「どうして自分は他の人と同じようにできないんだろう」と悩んできた人が、ADHDという言葉を知る。そして「自分だけがおかしかったわけではないのかもしれない」と思える。それは、とても大きな意味を持つ出来事だ。名前のなかった苦しみに、名前がつく。説明できなかった失敗に、説明するための言葉ができる。そして、自分と似た経験をしている人が世界のどこかにいると分かる。「自分だけじゃなかった」——人間にとって、それは決して小さなことではない。
だから私は、ADHDという言葉が社会に広く知られるようになったこと自体を、単純に悪いことだとは思っていない。知られていなかった困難が知られるようになった。そこには確かな価値がある。
問題は、その先にある。











