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TORENDIA

彼

本文約4,900字 ・ 読了時間 約10分

あらすじ(AIが作成しました)

印刷屋の二階に間借りする旧友は、社会科学に傾倒し、議論を好む青年だった。中学時代には妹の家を訪れ、後には腎臓結核を患いながらも従妹への密かな恋心を抱く。かつての友人たちと文学や社会情勢を語り合う日常は、やがて彼の病状の悪化とともに終わりを迎える。死後、彼が遺した蔵書が焼かれたことを知った「僕」は、自身の社会への認識や友人たちとの関わりを回顧し、その短くも独特な生と、彼をめぐる周囲の反応を描く。

芥川龍之介

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🎧 彼 / 朗読音声: VOICEVOX:春日部つむぎ

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一

僕はふと旧友だった彼のことを思い出した。彼の名前などは言わずとも好い。彼は叔父さんの家を出てから、本郷のある印刷屋の二階の六畳に間借りをしていた。階下の輪転機のまわり出す度にちょうど小蒸汽の船室のようにがたがた身震いをする二階である。まだ一高の生徒だった僕は寄宿舎の晩飯をすませた後、度たびこの二階へ遊びに行った。すると彼は硝子窓の下に人一倍細い頸を曲げながら、いつもトランプの運だめしをしていた。そのまた彼の頭の上には真鍮の油壺の吊りランプが一つ、いつも円い影を落していた。……

二

彼は本郷の叔父さんの家から僕と同じ本所の第三中学校へ通っていた。彼が叔父さんの家にいたのは両親のいなかったためである。両親のいなかったためと云っても、母だけは死んではいなかったらしい。彼は父よりもこの母に、――このどこへか再縁した母に少年らしい情熱を感じていた。彼は確かある年の秋、僕の顔を見るが早いか、吃るように僕に話しかけた。

「僕はこの頃僕の妹が(妹が一人あったことはぼんやり覚えているんだがね。)縁づいた先を聞いて来たんだよ。今度の日曜にでも行って見ないか?」

僕は早速彼と一しょに亀井戸に近い場末の町へ行った。彼の妹の縁づいた先は存外見つけるのに暇どらなかった。それは床屋の裏になった棟割り長屋の一軒だった。主人は近所の工場か何かへ勤めに行った留守だったと見え、造作の悪い家の中には赤児に乳房を含ませた細君、――彼の妹のほかに人かげはなかった。彼の妹は妹と云っても、彼よりもずっと大人じみていた。のみならず切れの長い目尻のほかはほとんど彼に似ていなかった。

「その子供は今年生れたの?」

「いいえ、去年。」

「結婚したのも去年だろう?」

「いいえ、一昨年の三月ですよ。」

彼は何かにぶつかるように一生懸命に話しかけていた。が、彼の妹は時々赤児をあやしながら、愛想の善い応対をするだけだった。僕は番茶の渋のついた五郎八茶碗を手にしたまま、勝手口の外を塞いだ煉瓦塀の苔を眺めていた。同時にまたちぐはぐな彼等の話にある寂しさを感じていた。

「兄さんはどんな人?」

「どんな人って……やっぱり本を読むのが好きなんですよ。」

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