右門捕物帖
本文約22,500字 ・ 読了時間 約46分
あらすじ(AIが作成しました)
新婚の幸吉とお冬は、人目を避けて向島の寮へ向かう。しかし湯殿での出来事をきっかけに不穏な空気が漂い、妻の腕には身に覚えのない不気味な入れ墨が彫られていた。この怪奇な事件の真相を右門が追い、姉が妹を溺愛するあまり引き起こした切ない独占欲が浮かび上がる。本作は、江戸を舞台に捕物と人情の機微を描く物語。
リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。
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その第三十二番てがらです。
ザアッ――と、刷毛ではいたようなにわか雨でした。空も川も一面がしぶきにけむって、そのしぶきが波をうちながら、はやてのように空から空へ走っていくのです。
まことに涼味万斛、墨田の夏の夕だち、八町走りの走り雨というと、江戸八景に数えられた名物の一つでした。とにかく、その豪快さというものはあまり類がない。砂村から葛飾野の空へかけて、ザアッ、ザアッ、と早足の雨がうなって通りすぎるのです。
「下りだよう。急いでおくれよう、舟が出るぞう――」
「待った、待った。だいじなお客なんだから、ちょっと待っておくれよ!」
こぎ出そうとしていた船頭を呼びとめて、墨田名代のその通り雨を縫いながら、あわただしく駆けつけたのは二丁の駕籠でした。
場所はずっと川上の松崎渡し。
川のこっちは浅草もはずれの橋場通り、向こうは寺島、隅田とつづく閑静も閑静な雛の里です。
「では、おだいじに……」
「ああ、ご苦労さん。ふたりとも無事に着いたと、おやじさまたちによろしくいっておくれ」
「へえへえ。かしこまりました。奥さま、かさを! かさを! おかさを忘れちゃいけませんよ。もう今夜から天下晴れてのご夫婦ですもの、なかよく相合いがさでいらっしゃいまし……」
お供の駕籠屋たちは、出入りの者らしい様子でした。かさをさしかけられて、はじらわしげに駕籠から出てきたのは、雪娘ではないかと思われるほどにも色の白い十八、九のすばらしい花嫁でした。つづいて、うしろの駕籠から出てきた男は二十三、四。――一見してだれの目にも新婿新嫁と見えるうらやましいひと組みです。
相合いがさに見える文字を拾っていくと、日本橋本石町薬種問屋林幸と読めるのでした。
しかし、雨は遠慮がない……。
ザアッ、ザアッと、けたたましく降り募って、しぶきの煙が川一面にもうもうとたちこめながら、さながらに銀の幕を引いたかのようでした。お客はその相合いがさのぬしがふたりきり……。