湯ヶ原ゆき
本文約7,500字 ・ 読了時間 約15分
あらすじ(AIが作成しました)
友人や家族の勧めを受け、病人である自分は親類の義母を同伴者として湯ヶ原温泉へ旅立つ。出発の遅れや熱による体調不良に加え、無口な義母との意思疎通に苛立ちを覚えつつも、道中で友人との偶然の再会を経て気持ちを立て直す。その後、人車鉄道に乗り継ぎ、雨に煙る山間の村落の静かな情景を眺めながら、ようやく目的地である湯ヶ原の温泉宿を目指して渓谷の奥深くへと分け入っていく。
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一
定めし今時分は閑散だらうと、其閑散を狙つて來て見ると案外さうでもなかつた。殊に自分の投宿した中西屋といふは部室數も三十近くあつて湯ヶ原温泉では第一といはれて居ながら而も空室はイクラもない程の繁盛であつた。少し當は違つたが先づ/\繁盛に越した事なしと斷念めて自分は豫想外の室に入つた。
元來自分は大の無性者にて思ひ立た旅行もなか/\實行しないのが今度といふ今度は友人や家族の切なる勸告でヤツと出掛けることになつたのである。『其處に骨の人行く』といふ文句それ自身がふら/\と新宿の停車場に着いたのは六月二十日の午前何時であつたか忘れた。兔も角、一汽車乘り遲れたのである。
同伴者は親類の義母であつた。此人は途中萬事自分の世話を燒いて、病人なる自分を湯ヶ原まで送り屆ける役を持て居たのである。
『どうせ待つなら品川で待ちましようか、同じことでも前程へ行つて居る方が氣持が可いから』
と自分がいふと
『ハア、如何でも。』
其處で國府津までの切符を買ひ、品川まで行き、其プラツトホームで一時間以上も待つことゝなつた。十一時頃から熱が出て來たので自分はプラツトホームの眞中に設けある四方硝子張の待合室に入つて小さくなつて居ると呑氣なる義母はそんな事とは少しも御存知なく待合室を出て見たり入つて見たり、煙草を喫て見たり、自分が折り折り話しかけても只だ『ハア』『そう』と答へらるゝだけで、沈々默々、空々漠々、三日でも斯うして待ちますよといはぬ計り、悠然、泰然、茫然、呆然たるものであつた。其中漸く神戸行が新橋から來た。特に國府津止の箱が三四輛連結してあるので紅帽の注意を幸にそれに乘り込むと果して同乘者は老人夫婦きりで頗る空て居た、待ち疲れたのと、熱の出たのとで少なからず弱て居る身體をドツかと投げ下すと眼がグラついて思はずのめりさうにした。
前夜の雨が晴て空は薄雲の隙間から日影が洩ては居るものゝ梅雨季は爭はれず、天際は重い雨雲が被り重なつて居た。汽車は御丁寧に各驛を拾つてゆく。
『義母此處は梅で名高ひ蒲田ですね。』
『そう?』
『義母田植が盛んですね。』
『そうね。』
『御覽なさい、眞紅な帶を結めて居る娘も居ますよ。』
『そうね。』