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TORENDIA

木犀の香

本文約1,400字 ・ 読了時間 約3分

あらすじ(AIが作成しました)

縁先で嗅いだ木犀の香りを機縁として、江西詩社の盟主黄山谷が晦堂老師を訪ね、難解な語句の真意を問うた逸話を回想する。老師が木犀の芳香を指し示して機智に富んだ回答を与える場面を通じ、花樹が放つ香気と秋の閑寂な心境の結びつきを綴る。さらに、質素な香炉のごとき花が秋の大気に薫りをもたらし、周囲の森羅万象を浄化していく様子を叙情豊かに描き、作者自身の精神がその香りに触れて昇華されていく様を考察する。

薄田泣菫

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🎧 木犀の香 / 朗読音声: VOICEVOX:雨晴はう

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「いい匂だ。木犀だな。」

私は縁端にちよつと爪立ちをして、地境の板塀越しに一わたり見えるかぎりの近処の植込を覗いてみた。だが、木犀らしい硬い常緑の葉の繁みはどこにも見られなかつた。この木の花が白く黄いろく咲き盛つた頃には、一二丁離れたところからでもよくその匂が嗅ぎつけられるのを知つてゐる私は、それを別にいぶかしくも、また物足りなくも思はなかつた。

名高い江西詩社の盟主黄山谷が、初秋のある日晦堂老師を山寺に訪ねたことがあつた。久濶を叙しをはると、山谷は待ちかねたもののやうに、

「時につかぬことをお訊ね申すやうですが……」

と言つて、

吾無隠乎爾

といふ語句の解釈について老師の意見を仰いだものだ。この語こそは、山谷がその真義に徹しようとして、工夫に工夫を重ねたが、どこかにまだはつきりしないところがあるので、もて扱つてゐたものだつた。

晦堂は客の言が耳に入らなかつたもののやうに何とも答えなかつた。寺の境内はひつそりとしてゐて、あたりの木立を透してそよそよと吹き入る秋風の動きにつれて、冷々とした物の匂が、あけ放つた室々を腹這ふやうに流れて行つた。

晦堂は静かに口を開いた。

「木犀の匂をお聴きかの。」

山谷は答へた。

「はい、聴いてをります。」

「すれば、それがその――」晦堂の口もとに微笑の影がちよつと動いた。「吾無隠乎爾といふものぢやて。」

山谷はそれを聞いて、老師が即答のあざやかさに心から感歎したといふことだ。

ふと目に触れるか、鼻に感じるかした当座の事物を捉へて、難句の解釈に暗示を与へ、行詰つてゐる詩人の心境を打開して見せた老師の搏力には、さすがに感心させられるが、しかし、この場合一層つよく私の心を惹くのは、寺院の奥まつた一室に対座してゐる老僧と詩人との間を、煙のやうに脈々と流れて行つた木犀のかぐはしい呼吸で、その呼吸こそは、単に花樹の匂といふばかりでなく、また実に秋の高逸閑寂な心そのものより発散する香気として、この主客二人の思を浄め、興を深めたに相違ないといふことを忘れてはならぬ。

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