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TORENDIA

厄年と etc.

本文約9,400字 ・ 読了時間 約19分

あらすじ(AIが作成しました)

四十二歳という厄年の境界線に到達した著者が、肉体的な衰えや生理的な変化を自覚する中で、厄年の持つ意味について考察を綴る随筆。白髪や聴力の低下といった加齢の兆候と、科学的根拠の曖昧な厄年という概念を重ね合わせ、自身の過去の記憶や人生の不連続な律動を振り返る。統計的なデータや生物学的な視点を交えながら、客観的な理解を試みると同時に、厄年の真の意義を問い直す精神的な彷徨を描く。

寺田寅彦

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気分にも頭脳の働きにも何の変りもないと思われるにもかかわらず、運動が出来ず仕事をする事の出来なかった近頃の私には、朝起きてから夜寝るまでの一日の経過はかなりに永く感ぜられた。強いて空虚を充たそうとする自覚的努力の余勢がかえって空虚その物を引展ばすようにも思われた。これに反して振り返って見た月日の経過はまた自分ながら驚くほどに早いものに思われた。空漠な広野の果を見るように何一つ著しい目標のないだけに、昨日歩いて来た途と今日との境が付かない。たまたま記憶の眼に触れる小さな出来事の森や小山も、どれという見分けの付かないただ一抹の灰色の波線を描いているに過ぎない。その地平線の彼方には活動していた日の目立った出来事の峰々が透明な空気を通して手に取るように見えた。

それがために、最近の数ヶ月は思いの外に早く経ってしまった。衰えた身体を九十度の暑さに持て余したのはつい数日前の事のように思われたのに、もう血液の不充分な手足の末端は、障子や火鉢くらいで防ぎ切れない寒さに凍えるような冬が来た。そして私の失意や希望や意志とは全く無関係に歳末と正月が近づきやがて過ぎ去った。そうして私は世俗で云う厄年の境界線から外へ踏み出した事になったのである。

日本では昔から四十歳になると、すぐに老人の仲間には入れられないまでも、少なくも老人の候補者くらいには数えられたもののようである。しかし自分はそう思わなかった。四十が来ても四十一が来ても別に心持の若々しさを失わないのみならず肉体の方でもこれと云って衰頽の兆候らしいものは認めないつもりでいた。それでもある若い人達の団体の中では自分等の仲間は中老連などと名づけられていた。

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