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TORENDIA

秦の憂愁

本文約9,300字 ・ 読了時間 約19分

あらすじ(AIが作成しました)

上海に滞在する文学者・星野武夫は、かつて東京で親交のあった詩人・秦啓源を探し求める。消息不明だった秦と再会を果たした星野は、彼の変貌した姿や周囲の奇妙な空気に戸惑う。その後、彼と共に過ごした夜に突発的な事態が起こり、星野は何も確かなことを知らぬまま日本へ帰国する。本作は、大陸の都市で潜伏生活を送る知識人の孤独と、彼をめぐる不可解な出来事を描く。

豊島与志雄

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星野武夫が上海に来て、中国人のうちで最も逢いたいと思ったのは秦啓源であった。だが秦啓源は、謂わば上海の市中に潜居してるもののようで、その消息がよく分らなかった。

星野は中日文化協会の人に頼んだ。

協会の人は頭をかしげた。

「秦啓源氏のことは、よく分りませんが、早速取調べて、何とか連絡をつけましょう。」

それが、幾日待っても、音沙汰なかった。

星野は大陸新報の人にも頼んだ。

新報の人はちょっと考えた。

「秦啓源……名前は知っていますが、よく分りませんね。聞き合せてみましょう。」

それが、やはり、いつまでも音沙汰なかった。

それから、星野は、日本軍特務機関の嘱託になってる某氏にも、頼んでみた。

某氏は事もなげに引受けてくれた。

「秦啓源ですか、よく知っていますよ。すぐに逢うようにしてあげましょう。」

然し、それきり音沙汰がなかった。

星野はなお二三の中国人に尋ねてみたが、要領を得なかった。

つまり秦啓源は、日本側にも、また中国側にも、一部の人々にはよく知られているが、大部分には知られていなかった。その上彼は、何か故意に姿を晦ましているらしくもあった。星野は少し忌々しく思った。次には、いつとなく彼のことを忘れかけてきた。

星野は忙しかった。上海と南京とを股にかけて、各方面に日程がぎっしりつまっていた。文学を中心として文化一般に亘り、いろいろな会合や調査などに、毎日飛び廻っていた。忙忽のうちに日々は過ぎて、予定一ヶ月は終り、あと数日で日本へ帰ることになった。

ぽつぽつ、帰途の荷物を整理しながら、星野はまた、秦啓源のことを思い出すのだ。そしてもう、思い出すことは、星野の性情として、何故彼に逢いたかったかを反省してみる方へ傾むいていた。

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