「ファン」について
本文約1,500字 ・ 読了時間 約3分
あらすじ(AIが作成しました)
映画監督が「ファン」という言葉に対する違和感や、自身の仕事と観客のあり方について綴る。特定のファンという存在を持たず、個体ではなく全体としての人間性を目標に制作を続ける理由を解説する。あわせて、自身の経験に基づき、映画に対する観客の評価の質や、一流の専門家が持つ批評眼の鋭さについて論じ、熱狂的なファン文化への厳しい視点を記す。
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私は今日までファンについてあまり考えたことがない。なぜならば第一私はファンという言葉が好きになれないのだ。
ファンという言葉が私の頭の中に刻みつけている印象は、私にとつてあまり幸福なものではない。
私は本当のファンがどういうものかを知らない。ただ私が自分の目で見てきたファンというものは不幸にも喧騒にして教養なき群衆にすぎなかつた。
私は残念ながらその人たちを尊敬する気になれなかつた。
これらの人たちを対象として仕事ができるかときかれたら私は返答に窮する。
しかし、それならば自分はいつたい何ものに見せるつもりで写真を作つているのかと反問してみる。
そこで私は努めて自分の仕事の目標を心に描こうと試みる。
しかし、どうしてもそれははつきりと浮び上つて来ないのである。
要するに、それはいわゆるファンというような具体的な存在ではないようである。
もともと私は自分のファンというものをほとんど持つていない。ファンと文通するというようなことも稀有な例に属する。
しかし、だからといつて私は自分の孤独を感じたことはない。
何千人の、あるいは何万人のファンを持つていますと人に数字を挙げて説明のできることははたして幸福だろうか。
零から何万にまで増えてきた数字は、都合によつてまた元の零に減るときがないとはいえないのである。
私は時によつて増えたり減つたりする定めなきものを相手として仕事をする気にはなれないのである。
つまりそこに一人、ここに一人と指して数えられるものは私の目標ではない。
すなわち私の目標は個体としての人間ではなく、全体としての人間性である。
だから私は直接に限られた数のファンとの交渉を持たないかわりに、間接的に無限のファンを持つているのと同じ安心を得ている。
私の持つているこの象徴的なファンは手紙などはくれないが、そのかわり増えたり減つたりは決してしない。
おせじをいつたり、暑中見舞をさしあげたりする必要はなおさらない。
一万、二万と明らかな数字をもつて現わすことは不可能であるがその大きさは無限である。