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TORENDIA

映画の観客と俳優

本文約2,100字 ・ 読了時間 約5分

あらすじ(AIが作成しました)

若年層を主な観客とする映画界の現状を分析し、日本映画が抱える幼稚さと真実味の欠如を論じる。西洋映画と異なり、日本の俳優には社会的な生活の厚みや風格が伴わず、知的な階級を演じ分ける質が備わっていない点を指摘する。映画企業や制作側が俳優の育成や配役の根本的な問題に向き合わず、虚飾に頼る姿勢を批判し、本格的な娯楽としての映画表現の可能性と、俳優の人間としての価値向上を説く評論である。

岸田國士

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映画はその歴史が若いやうに、映画の観客といふものは、概して非常に若い。一体に、芸術的なもの、精神的な娯楽を求める年代は、まだ生活のためには時間を多く取られない青年期であるに相違なく、文学的な読書なども四十を過ぎると、もうその必要を感じなくなるといふのが普通らしいが、それでもまだ、文学や演劇の方面では、大人にも十分魅力のあるやうなものがあるのである。ところが、映画となると、先づ第一に、内容がどうも大人の頭で考へられてゐず、世間をある程度知つてゐる眼から見ると、馬鹿々々しい嘘が多すぎ、形式から云ふと、自由であるだけに洗煉されてゐないところがあり、珠に、映画館の空気といふものが、変に子供臭くできてゐるのである。若い人達が沢山ゐるといふやうなことではない。装飾にしても、設備にしても、大人の神経にはどうも容れられないところがある。つまり、気恥しいのである。

映画は時代の尖端を行くものだから、時代遅れの年寄には向かんといふ理窟は成り立つやうで成り立たない。映画はなるほど時代の尖端を行く芸術たり得るものであらうが、日本今日の映画企業は、さういふ意味の感覚に於いて寧ろ甚だ遅れてゐるがために、即ち、青年的であるよりも寧ろ幼稚さを暴露してゐる場合が多いために、若さのもつ魅力よりも若輩をしか吸引し得ないあざとさによつて、十分時代に敏感な人々をすら近づけないといふこともある。

この点は、西洋の映画についても云へないことはない。ただ西洋ものには、相当の例外があり、娯楽としてなら十分大人を満足させ得るほどの本格的商品が出はじめてゐるのである。

日本の映画も最近では、さういふ程度のものを目がけてゐるらしい傾向があり、甚だよろこぶべきことであるが、まだ、なんとしても、興行者側が本腰を入れてゐないことが明らかで、その著しい証拠は金をかけるべきところにかけてをらず、根本の問題に一向手を触れる様子がない。

それでは、根本の問題とは何かといふと、第一に、西洋映画は何故面白いか、といふことを少し考へてみればわかるのである。

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