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TORENDIA

ラヂオ・ドラマ選者の言葉

本文約1,800字 ・ 読了時間 約4分

あらすじ(AIが作成しました)

ラヂオ文学の新たな様式を模索する筆者は、音による描写の本質や誘導的なリズムの重要性を説く。耳を通じて聴き手の想像力を喚起する対話の技術や、健康な精神を養う内容の必要性など、独自の選定基準を掲げる。応募作品に対しては、心理劇としての工夫や会話の生動さを評価しつつも、ラヂオ特有のイメージ喚起力や構成の面から厳格に分析し、当時の各作品への批評を綴る。

岸田國士

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🎧 ラヂオ・ドラマ選者の言葉 / 朗読音声: VOICEVOX:青山龍星

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ラヂオ文学といふ新しい様式について、私は常に興味をもち、なにか原理的なものを発見しようと心掛けてゐるのだが、放送局との関係も、別にそのために特殊な便宜を与へられてゐるわけではないから、なかなか思ふやうに研究もできないでゐる。

今日まで、ラヂオ・ドラマと称せられてゐる一種の形式も、自分だけの頭では、いろいろな空想が結びついてゐるが、それを実際に試みてみる機会さへ容易に得られないのである。

私はラヂオ小説乃至ラヂオ物語といふやうなものも考へてゐる。

ラヂオ風景とは、どこから生れて来た言葉か知らぬが、要するにかういふ名称は、文学の様式的分類から云へば、甚だ根拠のないもののやうに思はれる。単に「スケツチ」風のものだとすれば、創作として別個の扱ひを受ける必要もなく、小説かドラマかの部類に組入れて差支ないやうに思ふ。小説とかドラマとかいふ概念を近代風に解釈すればそれでいいのである。現に今度の応募作品中、はつきりその特殊性を示したものは一つもない。小説でもドラマでもないといふ勝手な「制限」が、却つて、これを「芸術的」に調子の低いものとし、興味索然たらしめることに役立つてゐるのみである。それ故、若しこの形式を独立させるとしたら、やはり「風物詩」の抒情味を生命とするものでなくてはなるまい。

ラヂオ・ドラマの方はどうかと見ると、これも大体、この新様式に対する認識が不十分であるやうに思ふ。といふ意味は、「耳で聴く」といふ観念が先になつてゐるだけで、「耳を通して眼の仮感に愬へる」といふ最も本質的なラヂオ文学の要素を閑却してゐることである。例へば、対話による描写を主とすることは、一見ラヂオ・ドラマの本質らしく考へられるが、しかし、その対話が、俳優の直接表情によつて生かされるやうな種類のものは、真にラヂオ的とは云へないのであつて、寧ろ対話そのものが、おのづから明確な表情を連想させ、同時に生活の雰囲気を髣髴させるやうに書かれてゐなくてはならないのである。

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