芸術座の『軍人礼讃』
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あらすじ(AIが作成しました)
ショウによる戯曲を芸術座が上演した舞台を論じる。写実主義とファンタジーが混在する脚本の面白味を指摘しつつ、上演用脚本としての文体や翻訳、舞台意匠のあり方に疑問を呈する。また、東屋三郎、汐見洋、水谷八重子ら出演者の演技を個別に講評し、相手役の台詞に反応しない姿勢や発音の課題などを具体的に指摘する。日本の近代劇が抱える翻訳劇上演の障害を痛感し、今後の新劇の可能性について考察する批評文である。
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脚本について――
同じショウのものでも、『ウォレン夫人の職業』と『アンドロクレスと獅子』との間には、殆ど一人の作家だけの距りがある。
然し乍ら、その距りはショウが写実主義を作品の根柢に置くか、或はファンテジイを作の基調とするかによつて自ら生ずる二つの傾向であると云へる。
そこで此の『軍人礼讃』であるが、これは写実主義の手法と、作者のファンテジイとが相半ばして、いづれを主とも定め難きものであらうと思ふ。そこにまた此の作品の面白味があるのである。
翻訳は極めて忠実に、而も相当デリケエトな皮肉や諷刺の味を伝へる事に成功して居るやうにも思ふが、またそこまでゆけば翻訳の難事業はまづ十中の八九まで完成されて居ると云はなければならぬが、たゞこゝに問題が生じると云ふのは、事苟くも上演用の脚本に関するからである。
これは戯曲の文体と云ふ問題になるから、こゝでは云はない。たゞ次に述べようとする俳優の台詞が、動もすれば聞きづらいと云ふのが、その罪の一半を翻訳者に於て負担するのが至当であると思ふ故に、こゝでこれだけの事を云つて置く。
舞台意匠について――
外国劇の上演と云ふことについては、色々の不便や困難が伴ひ、俳優も舞台監督も人知れぬ苦心をすることであらうと思ふが、その苦心こそはやがてその上演の結果を左右するものであることを忘れてはならない。
先づ此の脚本の舞台はブルガリヤの或る小さな町であるとすれば、或る程度までブルガリヤの地方色を出すことが必要ではあるまいか。――その必要はない。――よろしい。それならば何故、舞台をもつと様式化しなかつたか。第一幕のペトコフ家令嬢ライナの寝室の如きは純然たる写実でありながら、その見すぼらしさは、木賃宿の一室と選ぶ所はない。勿論ペトコフ家の令嬢が寝るやうな寝台を一つ買ふにも三百円や四百円はかゝるのだから、そんなことの為めに金を使へと云ふのではない。只どうして色彩的効果によつて舞台に或るリュックスの感じを出し得なかつたか。
演技について――