顎十郎捕物帳
本文約12,600字 ・ 読了時間 約26分
あらすじ(AIが作成しました)
文久二年の相模灘で、乗組員二十三人が忽然と消えた遠島船が発見される。船内には囚人七人や役人たちがいたはずだが、人影はなく、竈の火だけが細工により燃え続けていた。江戸の街では、盗人として島送りにされた伏鐘の重三郎が、鮮やかな手口で仲間と共に逃亡を図ったという噂が流れる。この不可解な密室事件の真相を、名探偵・顎十郎が犯人の心理や仕掛けられた術の謎を解き明かしながら、冷徹な推理で追っていく。
リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。
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初鰹
「船でい」
「おお、船だ船だ」
「鰹をやれ、鰹をやれ」
「運のいい畜生だ」
「おうい、和次郎ぬし、船だぞい、おも舵だ」
文久二年四月十七日、伊豆国賀茂郡松崎村の鰹船が焼津の沖で初鰹を釣り、船梁もたわむほどになって相模灘を突っ走る。八挺櫓で飛ばしてくる江戸の鰹買船に三崎の沖あたりで行きあうつもり。
ちょうど石廊岬の端をかわし、右に神子元島の地方が見えかかるころ、未申の沖あいに一艘の船影が浮かびあがって来た。
海面は仄白くなったが、まだ陽はのぼらない、七ツすこし前。
舳で、朝食の支度をしていた餌取の平吉がまっさきに見つけた。
鰹の帰り船が沖で船にあうと、最初に行きあった船に初鰹をなげこんでやるのがきまりになっている。鰹船の祝儀といって、沖で祝儀をつけてやることが出来れば、ことしの鰹は大漁だと縁起をいわう。
櫓杭に四挺櫓をたて、グイと船のほうへ舳をまわす。
「やアイ、船え――」
「おう、その船、初鰹を祝ってやるべえ」
払暁の薄い朱鷺色を背にうけて、ゆったりとたゆたっているその船。
妙に船脚のあがった五百石で、大帆柱の帆さきと艫に油灯の赤い灯がついている。
海の上はすっかり明るくなっているのに、油灯がつけっぱなしになっている。そればかりではない。大帆も矢帆も小矢帆も、かんぬきがけにダラリと力なく垂れさがって、舵も水先もないように波のまにまに漂っている。
海面は青だたみを敷いたようないい凪なので……。
「なんでえ、妙ちきりんな船じゃねえか」
「菱垣船か」
「菱垣にしちゃア小さすぎる。それに、菱垣の船印がねえや」
「灘の酒廻船か」
「新酒船は八月のことでえ」
「土佐の百尋石船か」
「石船にしちゃア船腹が軽すぎらい」
「それにしても、なにをしてやがるンだろう。こんなところで沖もやいする気でもあンめえ。時化でもくらいやがって舵を折ったか」
十五日の朝から夕方まで子亥のかなり強い風が吹いたが、日が暮れるとばったりとおさまって、それからずっと凪つづきだった。
舳を突っかけながら、あらためてつくづくと眺めると、帆綱の元場にも水先頭場にも、綱の締場にも、まるきり人影というものがない。たるみきった帆綱がゆらゆらと風に揺れているばかり。