謎の女
本文約9,000字 ・ 読了時間 約19分
あらすじ(AIが作成しました)
熱海で偶然顔馴染みとなった龍之介と山野さんは、梅園での対話を経て急接近する。家からの追跡を逃れるため、身分を隠したいという彼女の切実な頼みを受け、龍之介は東京のホテルで夫婦を装う共同生活を始める。謎に満ちた素性と強烈な個性を放つ彼女との危うい同居生活を通じて、龍之介は次第に彼女の存在に翻弄され、現実離れした冒険のような日常の中で困惑と奇妙な親密さを深めていく。
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一
左手には三浦半島から房総半島の淡い輪郭が海の中に突きだしている。
右手には伊豆半島の東側の海岸線が鋸歯状に沖へ伸びている。
正面には大島が水平線に浮いて見え、遥か手前には、初島がくっきりと見える。
すぐ眼の下には、熱海駅前の雑踏や、小学校のグランドに飛びまわっている子供らの声が、雲雀の囀るように聞こえる。
龍之介はMホテルのテラスの籐椅子に背をもたせて、身体いっぱいに日を浴びて、眼をつむっていた。すぐそばで、ホテルのコックがスポンジボールでキャッチボールをしている音が単調に聞こえる。一月の末だったけれど、ぽかぽかと暖かかった。
ぼんやり眼を開いてみると、すぐそばに山野さんが立っていた。彼女は二十二三の年格好で、見たところ、お嬢さんとも、奥さんともつかなんだ。ホテルでも、この女が何者かわからないと見えて、あたらず、さわらずに「山野さん」と呼んでいた。
「今日は暖かいですね」
龍之介はあわてて言った。
「ほんとに暖かですわ」
それっきりで会話はおわった。両方ともあまり話ずきではなかったし、別に話をする共通の材料もなかった。それで二人は、顔を合わせれば五度に一度は、きまり文句の挨拶を交わすだけだった。それでも二人とも、ひどく退屈だったので、一日のうちに五度や六度、パーラーや、玉突き場で顔を合わせぬ日はなかったので、一週間あまり滞在しているうちに、自然に顔馴染になってしまった。
「貴方梅園へいらして?」
「いいえ、まだ行きません」
「ちょうど今が見頃だそうですわ」
「そうですか、じゃ見てくるかなあ」
龍之介は自然に対しては、あまり興味をもっていなかったので、梅園などちっとも見たいと思わなかった。要するに梅の木がたくさん生えて、それに花が咲いているにすぎんのだと思うと、わざわざ見物に行く気は起こらなかった。それにどんなに見に行きたいにしたところで、一人っきりで、一人っきりの女を誘うようなことはできないたちだったので、お座なりに、独り言のような調子でばつを合わせたのだった。
「いらっしゃるのだったら、あたしもおともさせていただきますわ」