彦六大いに笑ふ
本文約28,400字 ・ 読了時間 約57分
あらすじ(AIが作成しました)
開発による立退きで閑散とした盛り場の裏通り、最後まで店を構える撞球場を経営する彦六は、周囲の店が次々と畳む中で窮地に立たされる。金貸しや立退き交渉人との確執を経て、彦六は周囲を置いて立ち去る決意をする。長男の彦一や娘のミルら家族との交流、そして金に執着し騒ぎ立てるお辻との対峙を通して、自身の境遇を笑い飛ばしながら、夜明けと共に新たな場所へ歩み出すまでの姿を描く。
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まへがき
ホンの此の間まで、その一廓はチヤンと生きてゐた。
あれでも、全部では十軒位の店は在つたのであらう。ハツキリ記憶に在るだけでも、先づカバン屋、洋品店、文房具も売つている雑貨店、靴屋、昼間は薄暗い店先だが夜になると不意に「サツク及スキンいろいろ」と書いたネオンが灯る衛生器具屋、小さい炭屋、そこだけが此の一廓中で二階になつてゐる撞球場、その階下の小さい酒場が大通りの角店になつてゐる。その横に小さな煙草店、それからその又横の中華料理店、そして、煙草屋と中華料理店との間が幅三尺位の露地になつてゐて、通りすがると気取つたセロの音がするのでヒヨイと覗くと、これがまるで箱根土産の寄木細工の箱の様に薄つぺらで小さな「純喫茶」と言ふやつ。しかも名前が、たしか「ル・モンド」と書いてあつた。僕は吹き出しさうになり、しかし、又、その大袈裟な所がトタンに気に入つて、飛び込みかけてヒヨイと見ると、隅の方にトグロを巻いている男の顔がチラツと見えた。顔見知りだが名は知らない。タカリ専門の三文演芸新聞を編輯している男で、此奴が酔ふと、必ず「左翼も駄目になつたなあ君、俺が江東で金属をやつていた時分は――」と来て、それから打つちやつて置くと筋もなにも通らないオダをあげて相手を離すことでは無いのだ。しまひにベロベロになると「全世界の青年××のために乾杯しよう」と来る。ことわると「ぢや反革命だな貴様は!」と眼を三角にして詰め寄つて来るから、始末に悪い。
僕は恐れをなして、踵を返すと、どう言ふものか、いきなり中華料理店に飛び込んでしまつた。大方、あわを食つたせゐだらう。しかし、その狭苦しい不景気な中華料理店の、ドロドロに汚れた腰掛に尻をトンとおろして何と言ふ事も無く溜息をついたら、急に腹が空いたやうな心持になつたから妙だ。シユーマイを一皿注文した。そしたら今度は小便がしたくなつた。
青い仏頂面の、それでゐて無闇にブカブカ太つた女給に便所を貸してくれと言ふと、彼女はニコリともしないで「便所は内には有りません。共同のが外にありますから、あすこでして下さい。」