老獣医
本文約12,600字 ・ 読了時間 約26分
あらすじ(AIが作成しました)
外手町に家畜診察所を構えた糟谷獣医は、妻と二人の子を養う生活の厳しさに直面している。かつて種畜場の若手技師として将来を嘱望された彼は、西洋の知識を武器に農村で活躍したが、時代の変化とともに取り残された。現在の困窮した暮らしの中で、妻は苦悶と悔恨を抱えながら気力を失っている。糟谷は旧知の西田の助けを得て、家族とともに明日への希望を見出そうと、日々の診療に勤しみながら穏やかな夜を過ごす。
リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。
💰 この本を応援する(投げ銭)
一
糟谷獣医は、去年の暮れ押しつまってから、この外手町へ越してきた。入り口は黒板べいの一部を切りあけ、形ばかりという門がまえだ。引きちがいに立てた格子戸二枚は、新しいけれど、いかにも、できの安物らしく立てつけがはなはだ悪い。むかって右手の門柱に看板がかけてある。板も手ごしらえであろう、字ももちろん自分で書いたものらしい、しろうとくさい幼稚な字だ。
「家畜診察所」
とある大字のわきに小さく「病畜入院の求めに応じ候」と書いてある。板の新しいだけ、なおさら安っぽく、尾羽打ち枯らした、糟谷の心のすさみがありありと読まれる。
あがり口の浅い土間にあるげた箱が、門外の往来から見えてる。家はずいぶん古いけれど、根継ぎをしたばかりであるから、ともかくも敷居鴨居の狂いはなさそうだ。
入り口の障子をあけると、二坪ほどな板の間がある。そこが病畜診察所兼薬局らしい。さらに入院家畜の病室でもあろう、犬の箱ねこの箱などが三つ四つ、すみにかさねあげてある。
ほかに六畳の間が二間と台所つき二畳が一間ある。これで家賃が十円とは、おどろくほど家賃も高くなったものだ。それでも他区にくらべると、まだたいへん安いといって、糟谷はよろこんで越してきたのである。
糟谷は次男芳輔三女礼の親子四人の家族であるが、その四人の生活が、いまの糟谷の働きでは、なかなかほねがおれるのであった。
平顔の目の小さいくちびるの厚い、見たとおりの好人物、人と話をするにかならず、にこにこと笑っている人だ。なにほど心配なことがあっても、心配ということを知っていそうなふうのない人である。
細君はそれと正反対に、色の青白い、細面なさびしい顔で、用談のほかはあまり口はきかぬ。声をたてて笑うようなことはめったにない。そうかといって、つんとすましているというでもない。