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TORENDIA

春深く

本文約3,200字 ・ 読了時間 約7分

あらすじ(AIが作成しました)

二十九歳の春、鬱屈とした日々を送る主人公は、島崎藤村や岡本綺堂の作品に触れた磯部温泉への旅を決意する。上野から汽車に乗り、寂れた温泉地へたどり着いた彼は、鳳来館という宿で一晩を過ごす。しかし、予想とは異なる土地の雰囲気や馴染めない環境に孤独を深め、翌日には早々に東京へと引き返す。本作は、何事も起こらない旅の記憶を綴り、当時の若さゆえの焦燥感と、後に抱くようになった寂寥感を淡々と描き出す。

久保田万太郎

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🎧 春深く / 朗読音声: VOICEVOX:波音リツ

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嘗て磯部というところへ行ったことがある。――上州のあの温泉の……

二十九の春とおぼえている。――駒形にまだいた時分だ。

みっともないから事の次第はいわない、とにかく、その時分、いまにして思えば空な話。――らちくちもない夢のような話をたよりに、わたしは、白痴みれんな毎日を送っていた。――寂しく、味気なく。――何をする張合もなく陰気そのもののような毎日を送っていた。

その間で、ふっと、東京にいるのがいやになった。――どこかへ行くことだ。――平生どこへも出たことのない奴がわけもなくそう思った。

で、直ぐ、そのつもりにした。外へ出たついでに旅行案内を買って来た。

磯部を選んだのは、島崎(藤村)先生のたしか「芽生」のなかにそこのことが出て来るのと岡本(綺堂)さんが、その少しまえ、そこへ暫く行っていられたというのを聞いたのと、そうした二つの理由からだった。――島崎先生と岡本さんの好みに合うところならどう間違っても大丈夫だ。――一人でそうきめたうらには、安中だの松井田だの、円朝の『榛名の梅が香』に出て来るそのあたりの、寂しい火の消えたような光景の自らわたしにさしぐまれるもののあったことは勿論だ……

汽車の中でよむ二、三冊の本と、原稿用紙と、万年筆と、外に一つ二つの手廻りのものと、荷物といってはそれだけだった。籠一つでことは足りた。――それを下げて四月の末の曇った午後、わたしはぼんやり一人で上野を立った。高崎で乗りかえて、五時ごろ、磯部へ着いた。

そこで下りたのはわたしだけだった。――切符をわたして思った以上に小さい、人けのないガランとした停車場の構内を出ると、繁り切った桜の嫩葉の、雨を含んだ陰鬱な匂がしずかにわたしに迫った。――あたりはもう灯火のほしいほどに暮れかけていた。

「鳳来館まで。」

二、三人、わたしをみてそばへ寄って来た車夫の一人にわたしはいった。

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