角力
本文約4,600字 ・ 読了時間 約10分
あらすじ(AIが作成しました)
事務室で仕事中の「わたし」は、石谷の誘いに応じて両国の国技館へ向かう。三十年ぶりの観戦に胸を躍らせるが、ガラ空きの桟敷席や仕切りを繰り返す相撲に往時の面影を見出せず落胆する。石谷は、現代の相撲が「品」や「詩」を失い、理詰めで互角を競うようになったと嘆く。かつての力士の面影を客席に追い求める中、わたしは偶然往年の名力士・鬼竜山の姿を目撃し、移ろいゆく時代と相撲の変容に想いを馳せる。
💰 この本を応援する(投げ銭)
一
……だまつて、一人で、せッせと原稿を書いてゐた石谷さんが急に立ち上り、
「一寸、ぢやァ、行つて来ます。」
万年筆をいそがしく内かくしへしまひながらいつた。
「どこへ?」
「行つていらつしやい。」といふ代りにうッかりわたしはかういつた。……わたしはわたしの席で、用があつて来たある新聞の人と、用をすましたあとの世間ばなしをしてゐた。
「角力へ……」
けゞんさうに石谷さんはいつた。
「あゝ。」
気がついて、わたしは、うしろの壁の時計をみた。
「三時ですね、もう。」
「すこし今日はいつもより遅くなりました。……あッちの人たちは疾うにもうでかけました。」
……あッちの人たちとは中継係の人たちをいふのである。
「行つてみようかしら、わたしも?」
ふいと、そのとき、石谷さんのその言葉の尾についてわたしはいつた。
「…………」
石谷さんはけゞんさうにまた眼鏡を光らせたが、
「どうです、行きませんか?」
すぐ、また、直截にいつた。
「連れて行つてくれますか?」
といふ意味は、不意に行つても邪魔にならないか?……わたしはさういつたつもりである。
「たまには御覧なさい、国技館のけしきも。」石谷さんはそれにはこたへないで、「いかにいまの角力といふものが……」
「行きます。……連れて行つて下さい。」
そのまゝわたしは椅子を立つた。お客を外の人にまかせてとも/″\石谷さんといそいで事務室を出た。……といふことのそも/\が、その四五日わけもなくいそがしかつたあとをうけた天気のいい午後で、訪ねたいと思つた人の都合をきかせると御不在、折角立てた予定のこはれた恰好のつかなさが、さうした出来ごゝろをわたしに起させたのである。
……出ると、外は、一ぱいの日の光だつた。
「これで、むかしァ、なか/\みたんですよ、角力を。」
自動車に乗るなりわたしはいつた。……とにかく、こッちから、「行つてみようかしら?」と売込んだのである、義理にも、何とか、事それに関したことを話さなければいけない必要をわたしは感じたのである。
「いつです、むかしといつて?」
石谷さんはわらつた。
「小錦の横綱時分です。」
「小錦の?」石谷さんは耳を疑ふやうに、「それぢやァ、あなた?」