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TORENDIA

井上正夫におくる手紙

本文約5,300字 ・ 読了時間 約11分

あらすじ(AIが作成しました)

演劇人井上正夫へ宛てたこの手紙は、かつて新時代劇を率いた彼が、挫折を経て新派へ戻り、さらに活動写真の世界へと進んだ歩みを回想する。慶應義塾の学生時代、有楽座で観た自由劇場の「馬泥坊」における主演の真実に感銘を受けた体験を軸に、新しい芝居が黄金時代を築きながらも衰退していった激動の時代の記憶と、自身の理想を胸に生きる一人の役者への敬意と痛切な哀惜の念を綴る。

久保田万太郎

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🎧 井上正夫におくる手紙 / 朗読音声: VOICEVOX:春日部つむぎ

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井上さん。

……あなたに手紙を書かうと思つてからもう半年になります。――と、藪から棒にかういつてもあなたには分らないかも知れませんが、去年の九月、あなたがほんたうに公園のみくに座へ出ることになつたとき、初日にあの「胡蝶蘭」といふ芝居を見て、早速「井上正夫に与ふるの書」をあなたに書かうとじつは思つたのでした。が、二三枚書いて、厭になり、そのまゝ途中でよしてしまつたのであります。

がその後でも、新聞に何かあなたのことが出てゐたり、みくに座の前を通つたりすると、なぜかその度に、さうだ、私は一度井上君に手紙を書かなければいけなかつたのだ、といふやうな心もちを掻立てられました。

考へてみると、一昨年の春、花月にハアゲマンの歓迎会があつたとき、かへりに松山君のところで初めてあなたにお目にかゝつた以来、大金の惜春会で一度、本郷座の楽屋で一度――私はまだあなたに二三度しか逢つてゐません。だが、私にとつては真砂座以来の深馴染、どこか銀座あたりで邂逅することでもあれば、無論私はあなたと「暫く」「暫く」位なことをいひ合ふやうな関係にあるものと、以前から固くさう思つてゐました。いまでも何うかすると、「近頃はどうしてゐます。」と、思ひもかけずあなたが、私のところへ遊びに来るのではないかといふやうなことさへときどき思はれるのです。

ところで、私はあなたに一度話したいと思つてゐることがあります。有楽座の新時代劇であなたが「馬泥坊」をやつたときのことです。それは丁度私が慶應義塾の予科二年のときで――そのときにはまだ、小説や芝居の好きな世間見ずの苦労のない学生にしかすぎませんでしたが、忘れもしない、クラス会があつて横浜へ遊びに行つたかへり、四五人の同級のものと途中でわかれて、一人有楽町の停車場で電車を下りたのでした。

だがもうそれは八時すぎ、丁度番組の第一の「秋の悲」の切れたところで、場内の灯火のいろがなぜか暗く疲れ切つた感じでした。――私はなんともいへない、空漠な、便りない気もちに襲はれました。

今から思ふと、それは、五分にも足りない心細い入でした。

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