われらが四季感
本文約2,500字 ・ 読了時間 約5分
あらすじ(AIが作成しました)
芥川龍之介の言葉を端緒に、日本人が持つ豊かな四季感と、それが詩情や俳諧といった日本独自の文学を生み出してきた背景を綴る随筆。著者は、国土の地形や生活習慣が国民の季節への鋭敏な感受性を育んだと考察する。さらに自身の海外での滞在経験を対比させ、日常の中にある変化を喜ぶ国民性を振り返り、日本人が季節の移ろいに対して一脈相通ずる共通の美意識や感性を共有していることを論じる。
💰 この本を応援する(投げ銭)
「ぼくはもう極楽行きは見合はせることにきめたよ」
と或る時、芥川龍之介が、例のいたずらつぽい眼をかがやかしながら、わたくしに話しかけたことがあつた。
「?」これはきつと何かあとにつづくおもしろい言葉があるに違ひないと予想したから、わたくしがあとを期待してゐると、彼は言ふのであつた。
「極楽は四時、気候、温和快適だとかで、季節の変化は無いらしいね。季節の変化のない世界など、ぼくにはまつぴらなのだ」
いかにも芥川らしい言ひ分であつた。彼は一面で俳人であり、俳句は季節の変化を主題とする文学だから、芥川が季節に変化のない世界をまつぴらだといふのは尤も千万である。
極楽浄土には季節の変化以上にこれを償つて余りある種々な精神的悦楽もあるらしいが、それにしても、芥川が季節の変化を無上の喜びとしたらしいこの言ひ分は、俳人ならずとも、すべての日本人に同感されてよいものと思ふ。
そもそも、われらが日本の国土は、世界の好もしい部分に位置して、季節の変化といふ点にかけては、全世界でも二つと無い豊富なところなのではあるまいか。
わたくしは日本以外、広い世界のどこでも半年以上を住んだことはないのだから、井戸の蛙のたわごとかも知れないが、四季それぞれに、さまざまな衣類が世界のどこにくらべても多すぎるほど多いらしい事実に鑑みて、これは我々の日常生活が格別にゆたかといふでもないのに、衣類だけがこう発達したのはわが国の季節の変化がそれほど微妙なため、またはわが国人が季節の変化に敏感なためだと思へるからである。季節の変化が多いといふのも、それに対して敏感といふのも、つまりは同じことである。さうしてそのためにこそ季節の変化を主題とする俳諧のやうな文学も発達したのである。
季節の変化に敏感なといふことは、わが国が、由来農業国で天候や四季の推移に対して生活が直結してゐたといふ事実に因るものかとも考へられる。
その原因が何であつたにもせよ、わが国民一般がゆたかな季節感を持ち、その自然とそのなかの生活とにおのづからな詩情を持つてゐた事実は争はれまい。そこに俳諧が生れ発達したのであらう。