素戔嗚尊
本文約42,500字 ・ 読了時間 約86分
あらすじ(AIが作成しました)
高天原の春、容貌の醜い素戔嗚尊は力競べに加わるが、周囲から孤立する。ある日、彼は部落を救うための犠牲として置き去りにされた櫛名田姫と出会う。神託により高志の大蛇へ差し出された姫に対し、素戔嗚尊は神々の託宣に屈することなく、怪物と戦い彼女を救う決意を固める。大蛇の襲来を予感させる不穏な気配の中、彼は愛する姫を守り抜くため、手にした剣を抜き放ち対峙する。
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一
高天原の国も春になった。
今は四方の山々を見渡しても、雪の残っている峰は一つもなかった。牛馬の遊んでいる草原は一面に仄かな緑をなすって、その裾を流れて行く天の安河の水の光も、いつか何となく人懐しい暖みを湛えているようであった。ましてその河下にある部落には、もう燕も帰って来れば、女たちが瓶を頭に載せて、水を汲みに行く噴き井の椿も、とうに点々と白い花を濡れ石の上に落していた。――
そう云う長閑な春の日の午後、天の安河の河原には大勢の若者が集まって、余念もなく力競べに耽っていた。
始、彼等は手ん手に弓矢を執って、頭上の大空へ矢を飛ばせた。彼等の弓の林の中からは、勇ましい弦の鳴る音が風のように起ったり止んだりした。そうしてその音の起る度に、矢は無数の蝗のごとく、日の光に羽根を光らせながら、折から空に懸っている霞の中へ飛んで行った。が、その中でも白い隼の羽根の矢ばかりは、必ずほかの矢よりも高く――ほとんど影も見えなくなるほど高く揚った。それは黒と白と市松模様の倭衣を着た、容貌の醜い一人の若者が、太い白檀木の弓を握って、時々切って放す利り矢であった。
その白羽の矢が舞い上る度に、ほかの若者たちは空を仰いで、口々に彼の技倆を褒めそやした。が、その矢がいつも彼等のより高く揚る事を知ると、彼等は次第に彼の征矢に冷淡な態度を装い出した。のみならず彼等の中の何者かが、彼には到底及ばなくとも、かなり高い所まで矢を飛ばすと、反ってその方へ賛辞を与えたりした。
容貌の醜い若者は、それでも快活に矢を飛ばせ続けた。するとほかの若者たちは、誰からともなく弓を引かなくなった。だから今まで紛々と乱れ飛んでいた矢の雨も、見る見る数が少くなって来た。そうしてとうとうしまいには、彼の射る白羽の矢ばかりが、まるで昼見える流星のように、たった一筋空へ上るようになった。
その内に彼も弓を止めて、得意らしい色を浮べながら、仲間の若者たちの方を振返った。が、彼の近所にはその満足を共にすべく、一人の若者も見当らなかった。彼等はもうその時には、みんな河原の水際により集まって、美しい天の安河の流れを飛び越えるのに熱中していた。