余は大衆作家にあらず
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あらすじ(AIが作成しました)
「大衆文学」という言葉の曖昧な定義や、純文学との対立構造を批判的に論じる。多数向けか少数向けか、道徳性の有無といった文士たちの恣意的な分類の欺瞞を指摘し、ジャーナリズムが作り上げた観念に警鐘を鳴らす。芸術という言葉自体が持つ尊厳が盲目的に受け入れられている現状に対し、トルストイの『芸術論』を引用しながら、芸術の本質を再検討すべきであると説く評論。
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芸術とは何ぞや
大衆という文字はいつ頃はじまった、いつ頃誰によって称え出されたものか知れないが、少くもここ十年以前には大衆文学なんぞというが如き文字は文学史にも新聞紙上にも見えなかったものである。
そこで、この十年以内に多分誰れかによって称え出されたものと思うが、それは誰れが何時称え出したかということは分らないが、他から命名されたものでなく、彼等文筆者流のグループの間から生み出されたものに相違ないと思う、今では、大衆文学なるものが、かなり一般的になって、そうして文学史上でもこれが為に幾ページかの線を劃さねばならぬほどになった、一般的にももう大衆文芸大衆文芸とわけもなく口の端にのぼせられるようになってしまった。
ところで、この大衆文学とか大衆文芸とかいう大衆の文字は一体何を意味するのであろうか、それがさっぱりわかっていない、大衆といえば仏教の方では古来一つの熟字になっていて一つの寺院の中の坊さん全体という意味に使われているが、しかし昔の漢籍の中にも大衆という文字が使われていないこともないが、今日いう処の大衆という意味はそういう意味ではなく、多分大多数という意味に使われているらしい、そこでその下へ文学という文字をくっつけて見ると、所謂大衆文芸というものは大多数文芸というような意味になるのであると思うが、さてここでまた問題なのは大多数をどうしようという意味の文芸なのか、大多数に読んで貰うという意味のものか大多数に読まれるという意味のものか、また大多数に調子を卸ろして大多数に媚びて見せてやろうというのか、大多数を導いて向上せしめようというつもりか、その辺甚だ曖昧千万である。