鐘ヶ淵
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あらすじ(AIが作成しました)
徳川吉宗が隅田川遊覧の際、鐘ヶ淵に沈むと伝わる鐘の探索を命じる。水練に長けた御徒士の大原右之助、三上治太郎、福井文吾が淵に潜るが、福井のみが鐘の所在を報告して賞賛される。その夜、三上と福井は再び淵へ向かい、互いに組み合った状態で遺体となって発見される。彼らの死因は不明のまま、将軍は鐘の引揚げを中止する。本作は、この不可解な出来事を巡る記録と伝承の断片を綴る。
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一
I君は語る。
僕の友人に大原というのがいる。現今は北海道の方へ行って、さかんに罐詰事業をやっているが、お父さんの代までは、旧幕臣で、当主の名は右之助ということになっていた。遠いむかしは右馬之助といったのだそうであるが、何かの事情で馬の字を省いて、単に右之助ということになって、代々の当主は右之助と呼ばれていた。ところで、今から六代前の大原右之助という人は徳川八代将軍吉宗に仕えていたが、その時にこういう一つの出来事があったといって、家の記録に書き残されている。由来、諸家の系図とか記録とか伝説とかいうものは、かなり疑わしいものが多いから、これも確かにほんとうかどうかは受け合われないが、ともかくも大原の家では真実の記録として子々孫々に伝えている。それを当代の大原君がかつて話してくれたので、僕は今その受け売りをするわけであるから、多少の聞き違いがあるかも知れない。その話は大体こうである。
享保十一年に八代将軍[#「八代将軍」は底本では「八大将軍」]吉宗は小金ヶ原で狩をしている。やはりその年のことであるというが、将軍の隅田川御成があった。僕も遠い昔のことはよく知らないが、二代将軍の頃には隅田川の堤を鷹狩の場所と定められて、そこには将軍の休息所として隅田川御殿というものが作られていたそうである。それが五代将軍綱吉の殺生禁断の時代に取毀されて、その後は木母寺または弘福寺を将軍の休息所にあてていたということであるが、大原家の記録によると、木母寺を弘福寺に換えられたのは寛保二年のことであるというから、この話の享保時代にはまだ木母寺が将軍の休息所になっていたものと思われる。