桑の実
本文約85,500字 ・ 読了時間 約172分
あらすじ(AIが作成しました)
夫を亡くし、苦しい生活を送る女性が営むカッフェー。そこへ奉公に上がったおくみは、亡き夫の知人である画家・青木らと温かい交流を重ねながら、先の見えない自身の境遇に不安を感じていた。ある日、青木から今後についての言葉をかけられたおくみは、周囲への感謝と自身の心境を抱えながら、日々の仕事や家事を通じて静かな暮らしを送る。これは、他人の世話になりながらも誠実に生きる若い娘の日常と、周囲とのささやかな関わりを描く物語である。
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一
おくみが厄介になつてゐるカッフェーは、おかみさんが素人の女手でやつてゐられる小さい店だけれど、あたりにかういふものがないので、ちよい/\出前もあるし、お客さまもぼつ/\来て下さるので、人目にはかなりにやつて行けるらしく見えたが、中へ這入つて見ればいろ/\あれがあつて、おかみさんは、月末になると、よく浮かない顔をして、ペンと帳面を手に持つたまゝ、茫やりと一つところを見つめてゐられるやうなことがあつた。
おくみは自分がいつまでもぶら/\とこゝにかゝりものになつてゐるのが済まないやうな気がして、いつも自分で先へ/\と用事を求めて働くやうにしてゐるのだけれど、料理場の男と店の方を受持つてゐるてきぱきしたお安さんともう一人の女中との外に、下を働く下女が一人、出前持の小僧が一人ゐて、それへおかみさんも出来るだけは立ち働いてゐられるので、おくみはたゞ十になられるあき子さんと小さい男のお子さんの面倒を見るのと、一寸したお針なぞをしたりする外には、これとてすることもなかつた。
「おくみさん、もうお寝みなさいな。十二時よ。私もそろ/\目をつぶりかけるわ。」
夜分なぞ、おくみはもうするだけの事はして了つて、客のない店の鏡のところへ出て悄んぼりと髪なぞ解いた後、窓の硝子を通して、向うの、郵便局をしてゐる家の赤い電球を、見るともなく見入つて立つてゐると、おかみさんが所在なさ相な顔をして出て入らつして、椅子を片寄せながらかう言つて、眠さうな欠伸をなさる。
女中のお安さんは、多い髪のハイカラな巻きかたに、黄色い厚い留櫛を見せて、向うのテイブルに俯ぶした儘、正体もなく居眠をしてゐる。
「雨でも降つてるのか知ら。変にしつとりしてるやうだわね。」
「さうでございませうか。」
入口の硝子戸を開けておくみは覗いて見た。雨ではないけれど真つ暗い夜である。店の少い通とて、もうどこにもすつかり戸を入れてゐて、人の往き来もない。頭の上には、たつた一つ黒く消えかけた星が、小さい詛ひのやうに瞬いてゐる。