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TORENDIA

墓の上に墓

本文約4,100字 ・ 読了時間 約9分

あらすじ(AIが作成しました)

人生における生死や再生、自然との対峙、批評の本質について綴る。人間は祖先の苦難を背負いつつ自らの生を完成させるものであり、死を恐怖ではなく流動的な自然の一部として捉える姿勢を説く。また、思想や抽象論に偏る創作や批評を戒め、作者の生活が血肉化された自然の面影を追求することの重要性を論じる。真の理解者は千歳の後に現れるものとして、自己の内部の必要に従い、誠実に書くことの意義を静かに肯定する随筆である。

田山録弥

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🎧 墓の上に墓 / 朗読音声: VOICEVOX:波音リツ

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銘々に、代り代り人生の舞台に出て行く形が面白いではないか。古来何千年の昔から人間がやつて来たと同じやうに、波の上に波が打寄せて来るやうに……。

我々は墓の上に墓を築きつゝあるのである。ロマン・ロオランが死者に逢ふといふことは自分の生を段々送つて行くことだと云つたが、実際さういふ気がする。父母の生活は年を経るに従つて次第に私達の心と胸とに蘇つて来る、父母も、又その父母も、祖先も皆な我々の中に生きて動いてゐる。

我々は矢張父母や祖先の苦んだ人生の重荷と艱難と苦痛とに堪へて生きて行かなければならないのである。又、その人生の重荷と艱難と苦痛とに堪へてこそ、我々は我々の生を完成することが出来るのである。完成は死でそして亦再生である。

後に続くものに対する愛、さういふことを私はよく考へた、新時代に対する反抗と言ふが、反抗どころか、私は無限と同化と愛とをそれに感ぜずには居られない。何故なら、その人達に由つて、私達は後に蘇ることが出来るのであるから、その人達が真に深く真面目に私達のことを考へる時が来るのであるから。それは今日、父母や祖先の生活が新しく蘇つて来てゐるやうに。

若い時分にあつては、死は一種の恐怖であつた。いつ何処からこの死が突然躍り出て来るかわからなかつた。それほど若い心は死といふものを理解することが出来なかつたのである。若い心に取つては、死はまだあまり遠すぎた。縁がなさすぎた。

しかし、今では、死といふものに対しても、微かながら理解が出来て来た。兎に角あと十年なり十五年経てば、当然いやでも死んで行くのである。さう思ふだけそれだけ死に近づいてゐると共に、死がもう不自然に突然にやつて来るものでないといふことが思はれた。死は、今では決して恐怖ではなかつた。『時』といふことを感ぜざるものよ、盲目なるものよ、鈍感なるものよ。爾はかの流動の枢軸の動く音をきかざるか。人生と宇宙との廻転して行く凄じき響を耳にせざるか。

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