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TORENDIA

路傍の小草

本文約4,700字 ・ 読了時間 約10分

あらすじ(AIが作成しました)

故郷で休暇を過ごす大学生Nは、長年あこがれの幻影を抱いて恋を追い求めてきた。都会で出会った女性や、友人の知る未亡人の面影を反芻し、愛読するハイネの詩集に理想を投影しては、空想の中の恋に浸る日々を送る。しかし、春の休みの終わり頃、Nは周囲の景色に物足りなさを覚え、自身の心の変化を自覚する。ある日、顔見知りの娘であるせん子と偶然出会ったことで、Nの空想的な恋のあり方に実在性を伴う新たな兆しが差し始める。

田山録弥

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🎧 路傍の小草 / 朗読音声: VOICEVOX:春日部つむぎ

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一

春の休みに故郷に帰つて来てゐる大学生のNのゐる室は、母屋からはずつと離れたところにあつた。かれはそこで毎朝早く眼覚めた。野には雲雀が揚つてゐる。茫つとあたりは霞んでゐる。隣の垣の花が朝日の光のまだ当らない空に模様か何ぞのやうになつて見えてゐる。小径の草には露がしとゞに置きあまつた。

かれはいつもきまつてその小径を通つて、裏門のかき金を外して野の方へと出て行つた。草に雑つて微かに匂つてゐるすみれや、田や畔に一杯に咲いてゐるげんげや、緑の中に白くかたまつてゐる馬こやしなどがやがてかれの前に現はれ出した。

かれはをりをり立留つて大きく呼吸した。

かれの心は恋に満たされてゐた。しかしこれと言つてきまつた相手があるのではなかつた。かれの前にはまださうしたものはあらはれて来なかつた。かれはいろいろに想像した。いろいろに当てゝ想像した。(もし此処にさうしたものがあらはれたとする。そしてそれにこの身が引き寄せられたとする……。さうしたら何んなにこの世が楽しくなるだらう。全で[#「全で」はママ]変つたものになつて見えるだらう)こんなことが絶えず頭を往来したが、しかもさうした想像だけで、Nは何年かを過したことをくり返した。

かれは都会の町の角や、電車の中や、停車場の一隅などで出会つた美しい色彩を絵巻でも見るやうに一つ一つそこに展げて見たことを思ひ起した。中でも電車の中で見た紫の地に蝶の飛模様のついてゐるコオトを着た娘がいつまでもかれの頭にこびりついてゐた。かれはそれを紫の君と言つた。何遍も何遍もかれはそれをその日記の中に書いた。

否、その日記の中にしるしつけた色彩は決してそれに限らなかつた。時には、わが月草の君とも書けば、山桔梗の君などとも、また時にはわが太陽よとも書いた。しかも今までかれは何等の接触をさういふ娘達に持つたことはなかつた。かれはいつもさう書いた。さうした幸運から離れてゐた。

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