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TORENDIA

正宗君について

本文約3,200字 ・ 読了時間 約7分

あらすじ(AIが作成しました)

正宗白鳥の文学的資質と人間性を評論する。その作品に見られる皮肉な観察眼と傍観的な姿勢、執着の薄さを指摘しつつ、優れた簡潔な筆致を称賛する。理想家でありながら世間を重く見る矛盾を抱え、自身の聡明さに縛られているとも分析する。死を鋭く意識するその孤独な内面に触れ、もっと心を開いて人間と向き合うことを切望し、芸術的虚無を保持して進む姿勢への尊敬と期待を込めて論じる。

田山録弥

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一

『徒然草』の作者を正宗君はよく持ち出すが、何処かそこに似たところがある。共通したところがある。島崎君がよく芭蕉翁を持ち出すのと比べて見て、そこに非常に興味があると思ふ。

芭蕉と兼好とは、全く種類の違つた人間で、兼好が進歩して芭蕉になるといふわけではない。兼好は何処まで行つても、ああした観察と皮肉と絶望とを持つて生きて行つたに相違ないし、芭蕉はまた芭蕉でいかに談林派の空気の中に生きてゐても、矢張あゝした真面目なところのあつた人に相違ない。さう見て来ると、人間の質と言ふものは不思議なものだ。何処まで行つても変らないものだといふ気がした。

正宗君が聡明であるといふことは、文壇での通り言葉であるが、私はそれには異存はない。しかし、世間から聡明だと言はれることは好いことであるか、わるいことであるか、それはわからない。私の考では、聡明な人はよくその聡明に捉へられるものである。人が愚かに見えたり、物の将来がはつきりとわかつたり、事件の表裏がすぐそれときめられたりするといふことは、非常に好いことではあるが、また羨しいことでもあるが、一面さういふ風なのが聡明に捉へられたといふことになるのである。つまり自分の智慧にあまりに信頼した形になるのである。自分ではさういふ気でなしに、ひとり手にさうなつて行くのである。賢人は賢に破れ、智者は智に亡びるといふことがあるが、さういふ形が何処からとなく出来て来るのである。

二

正宗君の作品を読むと、皮肉な観察がいつでも出て来る。従つてそのかげにゐる作者がいつも傍観的な感じを持つてあらはれて来る。そんなことは何うでも好いぢやないかとは言つてはゐないが、何処かわきに捨てゝ置いてしつこくそれを見てゐるといふ形がある。それもそれに愛着して捨てたのではなくて、好加減に軽く捨て去つて了つたと言つたやうなものが多い。だから執着がさう深くない、従つてその作品を読んだ感じにも、間色が多く単色は稀である。

正宗君に熱情を望むのは、望む方が間違つてゐるかも知れない。正宗君は岩野のやうなドンキホオテには何うしてもなり得ない人である。

三

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