母たち
本文約44,100字 ・ 読了時間 約89分
あらすじ(AIが作成しました)
父母の相次ぐ死と自身の病を経験した婚約者が、自らの内面に渦巻く死の記憶や異常な精神状態と向き合い、手記を綴る。彼は、結婚に対する懐疑的な心情や、過去の家族の姿、そして亡き母の面影を重ねてしまう婚約者への複雑な感情を吐露する。恋愛や情実に頼らぬ関係性を求め、偽りのない自分をさらけ出した上で、婚約者に結婚の是非を問いかけることで、二人の新たな門出を模索する物語である。
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……無常の人間に知られずに
隠れてゐて、わたし共も名を云ひたくない神です。
その家へ往くには、あなた余程深く摩り込むのです。
そんな物に用が出来たのは、あなたのせゐだ。
――『フウアスト[#「フウアスト」はママ]』第二部
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1
二つの死が私たちの結婚に先立つた。私たちは幼児の心を喪つた婚約者だ。しかし、もはや私たちのあひだには、胸をときめかす何の珍らしい期待もない、といふ君のことばは、正しいだらうか。どうかそれが、君の疲労の語らせた言葉にすぎないことを祈る。
君の思ひがけない失神、T博士の診断、そしてF高原への転地……つめたい言ひ方かも知れないが、君は自分の生理に愕いたにすぎないのではないだらうか。君や君の母上の最近のたよりによると、君はすでに恢復期を終らうとして、カルシウム注射の痛さもやつと間遠になつたといふ話だけれど、肉体の疲労はまだ君のこころの襞々に潜んでゐて、時たまああした言葉をささやくのではないのか。それを死の影響と思ひ過ごしてはいけない。死ののこした痕跡は、もしあるとすればもつと深い場所にあるはずだ。
だが死の痕跡は君のなかに、ひよつとしたら全く無いのではあるまいか。私はさう信じようとし、また疑ひなほす。実はこの逡巡が、君のたびたびの便りに返事を書けなくさせたのだが、それとても私は気づいてゐなかつたのではない――君をこの眼で見、よし一時間でも一緒に坐つてゐれば、おそらく見きはめはつくだらうことに。……しかもこの三月のあひだ、遠くもないF高原を一ぺんも訪ねずにゐたのには、ほかに訳があつたのだ。
本当をいふと、私は自分が怖かつたのだ。自分の異常な状態に気づいてゐたのだ。私はつとめて自分の心の硬さを信じようとしながらも、やはり死や死に伴ふ事情の生みだす醜い心の波立ちから、全く免れることはできなかつた。いやそれは、人一倍はげしかつたかも知れないのだ。やがて埋葬のあとに来た東京の烈しい夏が、そのやうな私を燬いた。なまじ心の硬さといふものは、ある場合にはかへつて逆羽の鱗になつてわが身につき刺さるものだといふことを、私は自分の思ひ知るにまかせて置いた。