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TORENDIA

伝不習乎

本文約4,600字 ・ 読了時間 約10分

あらすじ(AIが作成しました)

料理界や美術界、生け花の世界を例に挙げ、現代社会における文化や技術の形骸化と、本質を見抜く審美眼の欠如を論じる。著者は、料理における材料の軽視や、展覧会に出品される工芸品の低級さを指摘し、作り手と受け手双方が誠実さと教養を失っていると断ずる。何事においても真の価値を理解しようとする姿勢と、本体を掴む本物の精神が欠落している現状に警鐘を鳴らす随筆である。

北大路魯山人

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🎧 伝不習乎 / 朗読音声: VOICEVOX:玄野武宏

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昔の料理は至極簡単なものであった。今日の料理は至極複雑である。しかし、どっちが本当に美味を持っていたかというと、昔の簡単な料理に軍配が挙がる。少なくとも今日の料理が次第にインチキ料理になりつつあることは争われぬ事実である。それはなぜかといえば、料理法は簡単素朴なものであったが、材料がしっかりしたものであったからだ。

こんど某会館で魚料理を始めた。僕も開業の日に行ってみた。食べ物についてはぜいたくな紳士で知られている○氏が経営者で、その料理人というのが、フランスの有名な魚料理店に七年とか十年とかいたという男であるというのが看板で、相当期待をかけていたらしい。

ところが行ってみると、そこに並べてある材料の魚を見ると、その魚がどれもこれも二等品、三等品なのだから、あきれて物がいえない。

ちょうど僕がいる時に○氏が出て来て、支配人に料理はなんでもうまくなければいかんぞ、まずかったらあかんぞとどなっていた。あの食べ物についてやかましい紳士が、こういうことをいう以上、ともかく、料理として最上のものを作って食わせようというのが、魚料理を始めた方針であると思われる。

僕の思うのに、○氏はなるほどなかなかの食通で、うまい料理は食って知っている。だから食わせればうまい料理か、まずい料理かは分るに違いない。しかし、そこに並べてあった魚も、あの人が目をとおしたに違いないが、魚のよしあしは残念ながら分らない。おそらく、それでよいと思ったか、少なくとも、それでも料理人の腕次第で、これで立派な料理が出来るものと考えたか、いずれかに違いない。

しかも、開業日に並べたててみせる魚がこれだから、それで僕にはこれはいけないと思われた。案の定、料理は食われたものではなかった。

料理はその意味で、なんといっても材料が第一である。材料がよければ料理人の腕が少々鈍くとも甘ければ甘いなりに、辛ければ辛いなりに出来る。

しかし、これを食うひとの方からいえば、まず料理人がどうだこうだという話で、そんなことに騙されて、これはうまいだろうと考えるのが、いわば軽薄であるというより他はない。どこにいようと、だめなものはだめである。

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