読んできかせる場合
本文約1,900字 ・ 読了時間 約4分
あらすじ(AIが作成しました)
子供たちの感受性や心理に基づき、大人による教育のあり方を考察する。親の顔色を敏感に察知する子供の本質を見つめ、大人が功利的に知識を教え込もうとする姿勢の限界を指摘する。大人が真理を熱愛し、自身が真摯に感動する姿を見せることこそが、子供との真の対話や成長に繋がると説く。教育者や親が子供と向き合う際のあるべき姿を綴る。
💰 この本を応援する(投げ銭)
お母さんたちが、何か心配なことでもあって、じっと考えていられるとします。いつもなら、快活にお話なさるものが、その時ばかりは、全く、言葉さえなく口を噤んで、そして、いつもにこ/\として、やさしい顔から、笑の影の絶えなかったものが、なんとなく打ち沈んで、瞳をひとゝころに落していられたとします。
たとえ、その様子に対して、何人もが、注意しなくとも、かならず、あなた達の小さな坊ちゃんや、お嬢さんは、眼敏く、お母さんの顔色を読むにちがいありません。そして傍に寄って来て、
「どうしたの? お母さん。ねえ、どうしたの? お母さん」
こう言って、問うでありましょう。そうして、小さな心を満足するだけの返事をきかぬうちは、その言葉をくり返えすにちがいありません。
いったい、これ等の事実は、何を物語るものでしょうか。こうした場合に於ける、お母さん達の態度は、また、いろ/\であると思われます。たとえば、あるお母さんは、
「いま、ちょっと、お歯が痛んだものだからこうしていたのですよ」と、さりげなく言って子供に安心を与えるでありましょう。また、あるお母さんは、
「うるさいから、あちらへ行っておいでなさい」と、つっけんどんに、答えたでありましょう。そして、また、なかには子供が、しんけんで、きいているにかゝわらず、お母さんは、返事もせずだまっているにちがいない。
けれど、子供たちは、答えがあるまでは、おなじことを何遍もくりかえして、その傍を離れようとはしないでありましょう。しかも、最後に、罪もないのに、怖しい眼でにらまれ、もしくは、叱られるようなことがないとは限りません。
以上のことは、大人が、自分達の身の上に起った問題を、子供等に言っても分らないときめることからはじまります。成程、子供達には、その問題を現実として解決する、何ものゝ力をも有しないのは勿論でありましょう。けれど、問題の意味と性質さえ分れば、共に悲しみ、共に喜ぶことだけは、いかなる他人が寄せるよりも、もっと深く、且つ殉情的であるかは、すでにお母さん達が、自分の子供等についてよく知っていられる筈であります。