日本の民衆と「日本的なるもの」
本文約8,800字 ・ 読了時間 約18分
あらすじ(AIが作成しました)
文壇で流行する「日本的なるもの」の探究を論じる。著者は文学における自我を実在の個人ではなく認識機能上の方法的なカテゴリーと定義する。その上で、小市民的な自我の探究が行き詰まる中、日本の民衆への執着を欠いた「日本的なるもの」の概念を批判する。真に日本的なるものは日本の民衆に他ならず、作家は民衆の一員としてその民衆的な意識を自覚させるという科学的精神に基づく啓蒙の役割を果たすべきだと説く。
リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。
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文壇と一部の評論壇では、一口で云うと「日本的なるもの」の検討が風をなしている。私がこう口を切ると、そら公式主義者が「日本的なるもの」にケチをつけようとするものだ、と推量する周章者も少なくないかも知れないが、そう注文通りには行かないのである。併し公式主義という評語はすでにあり公式主義的に使い古された、何とかもう少し利き目のある評語を考え出すことが必要だろうと思う。それが考え出せぬとすれば、公式主義呼ばわりは、犬の遠ぼえのようなものと云わざるを得まい。
だが何はともあれ、私は今、公式主義者ではないのだ。なぜなら私は今、諸君と一緒に、正に「日本的なるもの」を探究しようとしているのだからである。ただその視角が、その力点が、諸君と多少違うかも知れない。そしてそこが勿論私の要点をなすのである。
話しを少し別な一見遠い処から始めよう。私はかつての道徳の概念を論じて、社会科学的な道徳の概念と文学的な道徳の概念とを区別したことがある。前者は道徳律や良心や人倫的習俗として、社会の上部機構の形で現実に存在する道徳現象のことであり、実在的な範疇としては、之が最も科学的な道徳概念なのである。併し之は社会科学の取り扱う対象であっても、必ずしもこの対象を捉えさせる方法にぞくするものだということは出来ない。もし道徳に社会科学の方法という資格でも与えられるとしたら、結果は世間によくある理想主義や自由主義のように、倫理学主義と呼ばれている例の社会観に陥らざるを得ないだろう。だからこの場合の道徳はあくまで実在するそのままの道徳のことで、之に万一方法上の用具として抽象されたものとして動いて貰っては、その結果は全く科学的でなくなって了って、甚だ困るわけなのである。