僕は白状する。あの妙な男の話したことは、僕をまるっきり混乱させてしまったのである。だからあの晩僕自身が感動した通り、他人に感動してもらえるように、あの男の話を繰り返すことは、僕には今もってできそうもない気がする。どうもあの話の効果というのは、まったく一面識もない男が、呆れるほど率直に僕に語ってくれた、その率直さのみにかかっているらしい。――
あの見知らぬ男が、サン・マルコの広場で、はじめて僕の目をひいたあの秋の午前から、もう二カ月ばかり経っている。大きな広場には、わずかな人影があちこち動いているだけだったが、そのゆたかな、童話めいた輪郭と金の装飾とを、心ゆくばかり鮮かに、柔かな薄青い空から浮き出させている、あの華麗な素晴らしい建物の前では、かすかな海風の中に、旗がいくつもひるがえっていた。正面の入口の真前には、玉蜀黍を撒いている一人の少女のまわりに、おびただしい鳩の一群が集っていて、同時に新しいのが四方からどんどん飛びつどって来る……それはたとえようもなく明るい晴れがましい美しさの眺めであった。
その時僕はあの男に出会ったのである。こうやって書いているうちにも、あの男の姿は髣髴として眼の前にある。丈は並よりも低いくらいで、足早に背中をまるめて、うしろに廻した両手でステッキを持ちながら歩く。黒の山高と薄色の夏外套と、それから黒っぽい縞のズボンを着けている。僕はなんということもなく、イギリス人だなと思った。年は三十ぐらいだろう。あるいは五十かもしれない。顔はきれいに剃ってあって、心持厚ぼったい鼻と、だるそうに物を見る灰色の眼とがある。口もとにはわけのわからない、やや内気な微笑がたえずただよっている。ほんの時々眉を挙げては、探るようにあたりを見廻す。また足もとへ眼を落す。二言三言独りごとをいう。首を振る。そうして微笑する。まあ、こんな調子で、あの男は根気よく、広場を往ったり来たりしていたのである。