いっさいの結末として、かつ立派な大詰として、いや、あのことの全体として、今残っているものは、生活――おれの生活――が「そのいっさい」、「その全体」がおれの心に注ぎ込む、あの嫌厭ばかりである。おれを絞めつけおれを駆り立て、おれをゆすぶってはまた投げ倒す、あの嫌厭である。おれにこのばかげたくだらない用向きを、残らずさっさと片づけて、逃げ出してしまうだけの動力を、おそらく早晩与えてくれる、あの嫌厭である。とはいえもちろん、おれはまだ今月か来月ぐらいは、こうやってゆくかもしれないし、あと四半年か半年ぐらいは、食ったり眠ったり、いろいろ用を足したりしつづけるかもしれない――この冬中おれの外面生活が過ぎたのと同様、機械的な、よく整ったおちついた調子で、かつおれの内部の荒涼たる分解作用と凄まじく相闘っているあの調子で。人間の内的体験というものは、その人間が、外的に束縛のない超世間な平穏な生きかたをしていればいるほど、ますます力強くますます心を疲らすようになりはしまいか。だが、どうにもならない。生きてゆくよりほかに仕方がないのである。活動の人となることを避けて、どんなに閑寂な荒野へ引っ込んだところで、人生の転変は内面的におそってくるだろうから、たとえ英雄であろうとばか者であろうと、ともかくその転変のうちに、自己の性格の真価を発揮せねばならぬであろう。
おれはこの小綺麗な帳面を用意して、その中におれの「身の上話」を物語るつもりでいる。いったいなぜだろう。おそらくともかくもなにかしら仕事をするためかしら。あるいは心理的なことを喜ぶ心持からと、その心理的なこと全体の必然性を味わい楽しもうという気持からかもしれない。必然性というものは実に慰めになるものだから。またもしかすると、ちょっとのあいだ、自分自身に対する一種の優越感と無関心、といったようなものを享楽するためでもあろうか。なぜといって無関心――それは一種の幸福だということをおれは知っている。