人さまざまの苦労の話
本文約2,500字 ・ 読了時間 約5分
あらすじ(AIが作成しました)
老醜という概念を否定し、老いの美しさを論じる随筆。著者は、老いていく過程を醜いものではなく、また別の世界が広がる恩恵であると捉える。戦時中の芥川賞審査会の席上、宇野浩二、佐佐木茂索と三人で自身の禿げ頭や白髪について冗談を言い合った際のエピソードを回想する。十人十色、それぞれの年齢や身体の変化に伴う悩みや苦労を分かち合い、年を重ねるごとに増す愛おしい歳月を語る。
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老醜と云ふ言葉があるが、自分のむかしから最もきらいな言葉の一つである。ひどく幼稚な観念的な言葉で、老人を無条件でヘコマセてくれようといふ風な底意地の悪い政治的なずるさがあつて甚だ無邪気でないところへ、何よりも馬鹿な言葉なのがいやなのである。老がもし醜ならば、少も壮も、人間はすべて醜であらう。青春や壮年だけが美のやうに思ふのは通俗で幼稚極る観念である。少、壮に美があるなら老にも美もあらう。老の美は少、壮の美と少し種類の違ふものであらう。例へば白髪頭、あれだつてなかなか美しい。それを少、壮、の美の尺度ではかるから醜になるだけの事、人生は老だけが醜などとは自分には考へられない。生に対して死をも格別醜とは思はないためか老が死の方へよろめいて行く醜のやうには見えない。醜は老、少にかかはらない。不健康だけがいつも醜であらう。健康な老は少しも醜でない。といふのが自分の少年のころからの考へで、いづれ老はまぬかれない運命とすれば(老は夭折よりもたしかに好ましい事なのだから)誰しも老を醜と思はず、老をいやがらないでむしろ親しむやうにした方がよいのだといふ風な考へ方になつてゐた。
自分にはむかしも今も敬老の思想はあまりない。しかし親老とでも云ふべきものはある。むかしから話相手には老人の方が好きであつた。
さうして自分も幸に夭折もしないで、今日、老の部類に入るやうになつたらしい。他から見れば、どうかは知らないが、自分では少、壮の時にくらべて少しも醜になつたやうな自覚はなく、自分の少年の頃から考へてゐたこととはあまり違はないで、老年には亦、老年らしい世界が美しくもたのしく展けて来たのを見て、天の人間に対して与へてゐる無限の恩恵を感謝してゐる。決して老人の負け惜しみではない。老境を特に好しとは云はないでも、少年時にも壮年の日にも変らず、老年の人生も亦好もしいと思ふのである。とかう、むつかしく説きはじめてみたものの実はほんのちよつとした実話を書いてみたいのである。――老人の茶のみ話に。