カインの末裔
本文約31,900字 ・ 読了時間 約64分
あらすじ(AIが作成しました)
北海道の厳しい冬、餓えと寒さに追われながらマッカリヌプリの麓へ辿り着いた仁右衛門と妻、そして幼子は、松川農場の小作人となる。しかし、過酷な労働と貧困の中で仁右衛門の精神は次第に荒廃し、周囲との軋轢を深めていく。やがて追い詰められた彼らは、すべてを喪失した状態で再び吹き荒れる雪の中へ、漂浪の道へと踏み出していく。極限状態における人間の内面と、社会から疎外された者の絶望的な彷徨を描く。
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(一)
長い影を地にひいて、痩馬の手綱を取りながら、彼れは黙りこくって歩いた。大きな汚い風呂敷包と一緒に、章魚のように頭ばかり大きい赤坊をおぶった彼れの妻は、少し跛脚をひきながら三、四間も離れてその跡からとぼとぼとついて行った。
北海道の冬は空まで逼っていた。蝦夷富士といわれるマッカリヌプリの麓に続く胆振の大草原を、日本海から内浦湾に吹きぬける西風が、打ち寄せる紆濤のように跡から跡から吹き払っていった。寒い風だ。見上げると八合目まで雪になったマッカリヌプリは少し頭を前にこごめて風に歯向いながら黙ったまま突立っていた。昆布岳の斜面に小さく集った雲の塊を眼がけて日は沈みかかっていた。草原の上には一本の樹木も生えていなかった。心細いほど真直な一筋道を、彼れと彼れの妻だけが、よろよろと歩く二本の立木のように動いて行った。
二人は言葉を忘れた人のようにいつまでも黙って歩いた。馬が溺りをする時だけ彼れは不性無性に立どまった。妻はその暇にようやく追いついて背の荷をゆすり上げながら溜息をついた。馬が溺りをすますと二人はまた黙って歩き出した。
「ここらおやじ(熊の事)が出るずら」
四里にわたるこの草原の上で、たった一度妻はこれだけの事をいった。慣れたものには時刻といい、所柄といい熊の襲来を恐れる理由があった。彼れはいまいましそうに草の中に唾を吐き捨てた。
草原の中の道がだんだん太くなって国道に続く所まで来た頃には日は暮れてしまっていた。物の輪郭が円味を帯びずに、堅いままで黒ずんで行くこちんとした寒い晩秋の夜が来た。
着物は薄かった。そして二人は餓え切っていた。妻は気にして時々赤坊を見た。生きているのか死んでいるのか、とにかく赤坊はいびきも立てないで首を右の肩にがくりと垂れたまま黙っていた。