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TORENDIA

善の研究

本文約123,300字 ・ 読了時間 約247分

あらすじ(AIが作成しました)

純粋経験を実在の根底と捉える西田幾多郎の哲学的著作。本書は、主客が合一した意識状態である純粋経験を論じ、これを基盤として善や道徳、意志の性質を解明する。また、知と愛の関係性を探求し、個人の経験を超えた宗教的境地や絶対的なものへの直覚についても考察を深める。人生の問題を中心とし、人間の内面的な活動から宇宙のあり方までを統一的に説明しようと試みた、著者の思想の出発点となる記念碑的な論考である。

西田幾多郎

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序

この書は余が多年、金沢なる第四高等学校において教鞭を執っていた間に書いたのである。初はこの書の中、特に実在に関する部分を精細に論述して、すぐにも世に出そうという考であったが、病と種々の事情とに妨げられてその志を果すことができなかった。かくして数年を過している中に、いくらか自分の思想も変り来り、従って余が志す所の容易に完成し難きを感ずるようになり、この書はこの書として一先ず世に出して見たいという考になったのである。

この書は第二編第三編が先ず出来て、第一編第四編という順序に後から附加したものである。第一編は余の思想の根柢である純粋経験の性質を明にしたものであるが、初めて読む人はこれを略する方がよい。第二編は余の哲学的思想を述べたものでこの書の骨子というべきものである。第三編は前編の考を基礎として善を論じた積であるが、またこれを独立の倫理学と見ても差支ないと思う。第四編は余が、かねて哲学の終結と考えている宗教について余の考を述べたものである。この編は余が病中の作で不完全の処も多いが、とにかくこれにて余がいおうと思うていることの終まで達したのである。この書を特に「善の研究」と名づけた訳は、哲学的研究がその前半を占め居るにも拘らず、人生の問題が中心であり、終結であると考えた故である。

純粋経験を唯一の実在としてすべてを説明して見たいというのは、余が大分前から有っていた考であった。初はマッハなどを読んで見たが、どうも満足はできなかった。そのうち、個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである、個人的区別より経験が根本的であるという考から独我論を脱することができ、また経験を能動的と考うることに由ってフィヒテ以後の超越哲学とも調和し得るかのように考え、遂にこの書の第二編を書いたのであるが、その不完全なることはいうまでもない。

思索などする奴は緑の野にあって枯草を食う動物の如しとメフィストに嘲らるるかも知らぬが、我は哲理を考えるように罰せられているといった哲学者(ヘーゲル)もあるように、一たび禁断の果を食った人間には、かかる苦悩のあるのも已むを得ぬことであろう。

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