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TORENDIA

島原の乱

本文約14,600字 ・ 読了時間 約30分

あらすじ(AIが作成しました)

徳川幕府による切支丹禁令と、肥後国島原・天草の領主による過酷な圧政が、領民の怒りを招く。豊臣の恩顧を受けた浪士の益田好次は、子である美少年の天草四郎時貞を擁立し、宗門の長老らと結託して一揆を画策する。流言飛語が広がり宗教的熱情が高まる中、佐志木作右衛門邸での代官殺害を機に、数万の領民が原城に籠城し、幕府軍と対峙する。幕府軍の総大将・松平信綱による指揮下で激しい攻防が繰り広げられ、信仰に殉ずる人々の物語を描く。

菊池寛

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切支丹宗徒蜂起之事

肥後の国宇土の半島は、その南方天草の諸島と共に、内海八代湾を形造って居る。この宇土半島の西端と天草上島の北端との間に、大矢野島、千束島などの島が有って、不知火有明の海を隔てて、西島原半島に相対して居るのである。

天正十五年、豊臣秀吉が薩摩の島津義久を征した時、九州全土に勢威盛んであった島津も、東西の両道を南下する豊臣勢には敵すべくもなく、忽ち崩潰した程であるから、沿道の小名郷士の輩は風を望んで秀吉の軍門に投じたのであった。

秀吉は此一円を、始め小西行長に属せしめたが、郷士土民はよく豊臣の制令に服従した。

徳川の天下となった後も、これらの郷士の子孫達は、豊臣の恩顧を想って敢て徳川幕府に仕うる事なく、山間漁村に隠れて出でようとはしなかったのである。

行長の遺臣益田甚兵衛好次はそれら隠棲の浪士の一人である。始め肥後宇土郡江辺村に晴耕雨読の生活を送ること三十余年であったが、寛永十四年即ち天草島原の切利支丹一揆の乱が起った年の夏、大矢野島に渡り越野浦に移り住んで居た。元来行長は切利支丹宗の帰依者であったから、その家臣も多くこの教を奉じて居たのであって、益田好次も早くより之を信じて居た。天正十八年末、徳川幕府は全国に亙って切利支丹、法度たるべき禁令を布いた。これより宗門の徒の迫害を受けること甚だしく、幾多の殉教哀史をとどめて居ること世人の知るが如くである。

九州の地は早くから西洋人との交渉があったから、キリスト教も先ず、この地に伝わった。伝来の年が西暦一五四九年、島原の乱が同じく一六三七年であるから此間九十年近い歳月がある。この長い年月に亙っての、宣教師を始めとした熱烈な伝道は、国禁を忍んで秘かに帰依する幾多の信徒をつくった。当時海外折衝の要地であった長崎港を間近に控えた島原天草の地には勿論、苫屋苫屋の朝夕に、密かな祈りがなされ、ひそかに十字が切られた。

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