俳諧瑣談
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あらすじ(AIが作成しました)
俳諧瑣談は、俳句の定義や翻訳の難しさ、俳人同士の逸話や流派のあり方、俳諧に通じる精神性や表現形式について綴る随筆である。著者は、ドイツ人の俳句を題材に俳句の本質を考察し、坂本四方太の日常的な姿を描写しつつ、俳諧の道が古代の兵法にも通じる多様性を秘めていることを説く。また、短歌と俳句における作者の対象との距離感の違いを比較し、俳諧を通して自然や人生を見つめる視点の特異性を論じる。
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一
ドイツの若い物理学者のLというのがせんだって日本へ遊びに来ていた。数年前にも一度来たことがあるのでだいぶ日本通になっている。浮世絵などもぽつぽつ買い込んで行ったようである。このドイツ人がある日俳句を作ったと言って友だちの日本人に自慢をした。それは
鎌倉に鶴がたくさんおりました
というのである。なるほどちゃんと五、七、五の音数律には適合している。いわれを聞いてみると、「昔頼朝時代などには鎌倉へんに鶴がたくさんにいて、それに関連した史実などもあったが今日ではもう鶴などは一羽も見られなくなって、世の中が変わってしまった」という感慨を十七字にしたのだそうである。それを私に伝えた日本の理学者は世にも滑稽なる一笑話として、それを伝えたのである。
なるほどおかしいことはおかしいが、しかし、この話は「俳句とは何か」という根本的な問題を考える場合に一つの参考資料として役立つものであろうと思われる。すなわち、これが俳句になっていないとすれば、何ゆえにそれが俳句になっていないかという質問に対するわれわれの説明が要求されるのである。この説明はそうそう簡単にはできないであろう。
以上の笑話はまた一方で大多数の外国人がわが俳句というものをどういうふうに、どの程度に理解しているかということを研究する場合に一つの資料となるものであろうと思われる。
二
近刊の雑誌「東炎」に志田素楓氏が、芭蕉の古池の句の外国語訳を多数に収集紹介している。これははなはだ興味の深いコレクションである。そのうちで日本人の訳者五名の名前を見るといずれも英語にはすこぶる熟達した人らしく思われるが、しかし自身で俳諧の道に深い体験をもっているのかどうか不明な人たちばかりのようである。残りの十人の外国人ももちろん自身に俳句らしい俳句を作ったことのない人たちばかりであるに相違ない。
俳句を充分に理解しうるためには、その人は立派な俳句の作り得られる人でなければならないと思われる。はたしてそうだとすれば、これらの十五種の「古池や」の翻訳のうちで、もし傑作があったら、それは単なる偶然に過ぎないであろう。