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TORENDIA

あひると猿

本文約5,100字 ・ 読了時間 約11分

あらすじ(AIが作成しました)

信州の温泉を再訪した著者は、去年の夏と変わらぬ風景の中に季節の微妙な変化を見出し、池のあひるの観察を通じて生物の多様な姿を描く。また、小諸城趾を訪れてからすの声を聞き、動物園で煙草を口にする猿に驚く。帰路に交通事故に遭遇するなどの出来事を経て、人間社会の移ろいや避暑地に周期的に現れる渡り鳥のような人間の生態に思いを馳せる随筆である。

寺田寅彦

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🎧 あひると猿 / 朗読音声: VOICEVOX:春日部つむぎ

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去年の夏信州沓掛駅に近い湯川の上流に沿うた谷あいの星野温泉に前後二回合わせて二週間ばかりを全く日常生活の煩いから免れて閑静に暮らしたのが、健康にも精神にも目に見えてよい効果があったように思われるので、ことしの夏も奮発して出かけて行った。

去年と同じ家のベランダに出て、軒にかぶさる厚朴の広葉を見上げ、屋前に広がる池の静かな水面を見おろしたときに、去年の夏の記憶がほんの二三日前のことであったようによみがえって来た。十か月以上の月日がその間に経過したとはどうしても思われなかった。信州における自分というものが、東京の自分のほかにもう一つあって、それがこの一年の間眠っていて、それが今ひょっくり目をさましたのだというような気がするのであった。

このように、すべてのものが去年とそっくりそのままのようであるが、しばらく見ているとまた少しずついろいろの相違が目について来るのであった。たとえば池のみぎわから水面におおいかぶさるように茂った見知らぬ木のあることは知っていたが、それに去年は見なかった珍しい十字形の白い花が咲いている。それが日比谷公園の一角に、英国より寄贈されたものだという説明の札をつけて植えてある「花水木」というのと少なくも花だけはよく似ているようである。しかし植物図鑑で捜してみるとこれは「やまぼうし」一名「やまぐわ」(Cornus Kousa, Buerg.)というものに相当するらしい。

とにかく、わずかな季節の差違で、去年はなかったものが、今突然目の前に出現したように思われるのであった。不注意なわれわれ素人には花のない見知らぬ樹木はだいたい針葉樹と扁葉樹との二色ぐらいか、せいぜいで十種二十種にしか区別ができないのに、花が咲いて見るとそこに何か新しい別物が生まれたかのように感じるものらしい。無理な類推ではあるが人間の個性も、やっぱり何かしらひと花咲かせてみないと充分にその存在がはっきりしない、あれと同じだというような気がするのである。

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