恢復期
本文約16,100字 ・ 読了時間 約33分
あらすじ(AIが作成しました)
重い病を患い長期間の療養生活を送る「彼」は、寝台車での移動や療養所での日々を通じて、自身の心身の変調や死の影を意識しながら過ごしている。回復に向かい始める中で、過去の喀血体験や死生観を抱える彼は、軽井沢にある叔母の山荘へ身を寄せ、浅間山の噴煙を眺めながら自身の生存への問いと向き合う。病からの緩やかな恢復過程と、日常の中に潜む生と死の気配を描く。
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第一部
彼はすやすやと眠っているように見えた。――それは夜ふけの寝台車のなかであった。……
突然、そういう彼が片目だけを無気味に開けた。
そうして自分の枕もとの懐中時計を取ろうとして、しきりにその手を動かしている。しかしその手は鉄のように重いのだ。まだその片目を除いた他の器官には数時間前に飲んだ眠り薬が作用しているらしいのである。そこで彼はあきらめたようにその片目を閉じてしまう。
が、しばらくすると、彼の手がひとりでに動き出した。さっきの命令がやっといまそれに達したかのように。そうしてそれがひとりで枕もとの懐中時計を手捜りしている。その動作が今度は逆に、彼自身ほとんど忘れかけていたさっきの命令を彼に思い出させる。
「まだ三時半だな……」
彼はそうつぶやくと、一つ咳をする。するとまた咳が出る。そうしてその咳はなかなか止みそうもなくなる。まだ一時間ばかり早いけれども仕方がない。もう起きてしまおうと彼は思った。――彼は上衣に手をとおすために身もだえするような恰好をする。やっとそれを着てしまうと、半年近くも寝間着でばかり生活していた彼には、どうもそれが身体にうまく合わない。ネクタイの結び方がなんだかとても難かしい。靴を穿こうとすると、他人のと間違えたのではないかと思う位だぶだぶだ。――そういう動作をしながら、彼はたえず咳をしている。そのうちにそれへ自分のでない咳がまじっているのに気がつく。どうも彼の真上の寝台の中でするらしい。おれの咳が伝染ったのかな。彼は何気なさそうに自分の足もとに揃えてある一組の婦人靴を目に入れる。
彼はやっと立上る。そうしてオキシフルの壜を手にしたまま、スティムで蒸されている息苦しい廊下のなかを歩きだす。鞄につまずいたり、靴をふんづけそうになる。一つの寝台からはスコッチの靴下をした義足らしいのが出ていて彼の邪魔をする。そんなごった返しのなかを、彼はよろよろ歩きながら、まるで狂人かなんぞのように眼を大きく見ひらいている。……