翻訳のむずかしさ
本文約2,700字 ・ 読了時間 約6分
あらすじ(AIが作成しました)
翻訳文芸が普及する中で、原語の持つニュアンスや洒落を損なわずに言葉を移し替えることの困難さを論じる。原文の意図を正確に伝えようとするあまり直訳に終始すると、かえって不自然な表現を生むという矛盾を指摘する。翻訳者は単なる情報の伝達者ではなく、原文という遊びの制約と戦いながら、表現の可能性を模索し続ける叛逆者であるという言語活動の本質を綴る。
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飜訳文芸が繁昌だそうである。一応は結構なことだ。あの五十年という制限の網の目がだいぶ緩められて、生きのいい魚がこっちの海へも泳いできて、わが文化の食膳にのぼせられる。悪かろうはずはないが、物事には必ず善悪の両面がある。水から揚がるのは、いい魚ばかりとは限らない。お客さんは腹が空いているから何でも食う。そこで料理人は転手古舞で、材料の吟味はもとより、ろくろく庖丁も研ぐひまがないという景気になる。つまり濫訳の弊が生じるわけだ。もっともこれは、何も飜訳文芸に限った話ではない。需要の盛大が粗製濫造の弊を伴なわないで済むのは、よほど文化の根づきの深い国のことだろう。
まあそんな騒ぎの飛ばっちりで、僕にも一つ板前の苦心談をやれという話になったが、実をいうとこれはちょっと困る。苦心談は要するに自慢ばなしだ。お座敷天婦羅にしたところで、長い箸でニューッとつまんで出される度に能書がついたのでは、お座も胃の腑も冷めてしまう。いわんや僕なんかの板前においてをやだ。いずれ僕もあと三十年もしたら浴衣がけで芸談一席と洒落る気になるかも知れないが、今のところはこの不細工な割烹着を脱ぐつもりはない。
で問題を少しそらして、一般に飜訳のむずかしさとでもいったことについて、少しばかり書いてみたい。正直のところ僕は、飜訳という仕事がだんだん辛くなって来ている。あながちお年のせいでも、目が肥えてきたせいでもあるまいが、とにかく近頃は一行訳すにも、飜訳という仕事の不自然さ不合理さが鼻についてやり切れない。それで、たまに飜訳をやりだしても、一晩徹夜して三枚なんていう酷いことにもなりがちだ。そう凝っていたのじゃ間職に合うまい、と云ってくれる友人がある。大そう御苦心で、さぞ名訳が……と迷惑そうにおだててくれる編集者もある。だがこっちは、別に凝りも苦心もしていないのだから困るのである。徹夜の時間の大半は、今いった不自然感、不合理感との組打ちのうちに、ただ空しく流れているだけなのだから。こうなるともう何のことはない、一種の脅迫観念だ。